kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<11> 人生を豊かにする三つの扉 

 人格の深みは、容易に感じられるものだ。ものの5分も話をすれば十分だろう。その人がどれほど深く人生を見つめ、どれほどの深みをもって毎日を生きているのかが手にとるように分かる。そして、深みを感じれば感じるほど、その人に惹かれるのは不思議なものだ。その深みとは、異性への愛を突き抜けた人間への愛である。人情の機微に鋭敏で、人の心の痛みが分かる人。親身になって人の悩みに心を同調させることができる人とも言える。できれば、そのような友と一緒にいたいと、心底思わせる人間愛である。
 具体的に言わなければ分かりづらいだろう。ふと机上を見れば、児童文学「あのときすきになったよ」があった。これは好例だ。クラスのみんなから疎まれていた女児が、おもらしをした友だちにすかさずバケツで水をザブンとぶっかけた。先生から叱られ、その女児は廊下に立たされる。ひとことも言い訳を漏らさない。だが、水を掛けられた友だちは分かっている。笑い者にされる窮地を救ってくれたことを。この女児のそばにずっといたいと、思わないか。強く抱きしめてあげたいと、思わないか。実にいとおしい存在だ。 
 深みは何によって生まれるのか。生まれつき決定されている部分もあるが、やはり生後の経験がものをいう。その経験により人格に深みを刻み、人生を豊かにするのだ。実は、その経験に入るには、三つの扉がある。

 第一の扉は、何気ない日常の経験になる。できるだけ外に出て人と交わるのがよい。人と交われば、心と心の交差が起こり、それが自らの心を鍛え、深みを与えてくれる。しかし、毎日の過ごし方によって心の交差の生まれ方には大きな差異が出る。人との交わりでは、心中にさざ波が立てば立つほどよい。しかし、何気ない日常の中で心のさざ波が頻繁に生まれるほどの変化を期待するわけにはいかない。変化を生む移ろいをただ待っていては、深みをつくるのにかなりの時間を費やしてしまう。

 そこで、第二の扉を開ける。それは、旅に出ることだ。日本の四季は旅情を誘う。日常の倦怠からふと旅に出たくなることもあるだろう。できれば時間を作って世界を巡ることができればよいが、そのような時間をつくれない場合は、週末の小旅行でもよい。普段の自分の日常から離れる時間と空間に身を置こう。そこでの新たな経験が深みをつくる。通りすがりの人とのふれあい。ちょっと人生を語り合うのもよし。水平線の彼方、深紅に沈む夕日にもの想うのもよし。日常から一時でも離れた場合、珠玉の経験が心を紡ぐ。その経験は半端ではないぞ。五感の中でも原始感覚と呼ばれる嗅覚や触覚にまで刻まれる、ぬぐい得ない経験だ。

 旅に出る暇もないだって? 結構引き籠もりがちだから、私は無理かな、とあきらめるのはまだはやい。そういう向きには、第三の扉がある。読書である。できれば、小説がいいな。文字の流れという疑似体験のなかで、自分では決してできない出来事をヴァーチャルに体験するのである。読書中の想像をかきたてる脳の働きは、実体験にまさるとも劣らない。旅での経験には劣るかもしれないが、これはなかなかの深みをつくる。

 私も随分と世界を回ったものだ。そこではかけがえのない体験もした。アメリカ、ニューヨークでは、ナイン・イレブンの同時テロに見舞われたツインビルの崩壊跡を前に呆然と立ち尽くした。生まれて、初めて、世界を見た、と衝撃が走る。それまで、どこの国へ行っても同じだと高をくくっていた私がだ。スペインのセゴビアでローマ時代に建てられた巨大な水道橋に、底知れぬ人力に触れ、畏敬の念に心をうたれたこともあった。人との直接的な対話はなくても、夥しい人数の人たちと話をしたような気持ちがした。それぞれの経験が、心にずしりと蓄積される。
 それに、結構ブッキッシュな私は、毎晩就寝前の読書でまだ見ぬ体験をさせてもらっている。作家が思い切りイメージを膨らませた小説は疑似体験としては最高の舞台だ。人生80年どころではない。数百年分生かさせてもらえそうだ。

 こうして私には深みが出たのだろうか。まだまだだという思いは強いが、人の心の痛みには少しは敏感になれたのでは、と思っている。まさか、思い過ごし、ではないだろな。