kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<12> 性格は変えられる!

 性格(パーソナリティ)は、良くも悪くも我々を牛耳っている。影響力絶大である。その形成には、遺伝が7とか6で、生後の環境が3とか4と言われるが、まあ、半々だと考えればよい。目下のところ遺伝子操作で性格を変えることは不可能なので、生後の環境に気をつけることになる。
 生後の環境では大人からの養育態度が大きく影響する。一般に言うように、子どもは親の鏡で、親が暴力的であると子ども暴力的になり、親が優しいと子どもも優しい。この方程式は実に簡単だ。

 たとえば、報酬鋭敏性と罰鋭敏性性格のことを考えてみよう。親が厳しく叱って子育てをすると、子どもの性格は罰に鋭敏になる。いつもおどおどしていて、罰を受けないか、受けないかとおびえている。対人的な行動も消極的になり、行動範囲もおのずと狭まる。おおらかに褒めて育てていると、報酬に鋭敏な性格となり、積極的に人に近づき、行動範囲も広がる。こう見ると、報酬鋭敏性の方に軍配が上がる。しかし性格というのは、いくら望ましくとも極端になってはいけない。この2つの性格で言えば、報酬鋭敏性3で罰鋭敏性1ぐらがよいだろう。要は、バランスである。中庸をもって旨とする、とはよく言ったものだ。

 この性格の育ちに問題があり生きづらいようだと、変えたくなるのが人情だろう。このニーズをとらえて「性格は変わる」などのタイトルで書籍が多く出版される。最近では、臨床心理学者のアドラー関連の書籍がよく読まれている。しかし、アドラーでは変わらない。そして、外傷体験になるような強烈な体験ならいざしらず、通常は一気に性格は変わることはない。
 そもそも生まれたときには気質(興奮しやすいなど)はあっても性格はない。気持ちやものの見方や実際の行動が同一のパターンをもって共変するようになると、その総体として性格が生まれる。ちょっとむずかしいかな。これを逆手にとれば性格を変えることができるのだ。無理をしても、変えたい性格にあった行動をしばらく続ければよい。そう、変えやすい行動から入ればよいだろう。最初は苦しくても、周りの人がそれに慣れれば行動の持続は簡単だ。

 たとえば、今の私は比較的社交的だが、かつてはそうではない。しかし、自分が活動したいと思う環境では社交的でなければやってられないので、無理に人との交流を増やした。宴会では幹事をやり、余興も率先して行う。これが自分かと疑うほどだ。自分の性格からすれば辛いことこの上ない。しかし、それを続けると、周りもあいつは結構社交的だと思うようになる。そうすなると、しめたものだ。相手が受け入れるので、自分もその行動が取りやすくなる。そうしているうちに行動の背景にある性格までもが社交的に変貌する。

 今でも、私の性格の深いところは社交的ではないと思う。しかし性格は表現型がものを言う。表現型が社交的なら、それはもう社交的な性格に他ならない。
 しかし、しかしだ。いつの日か、殻に閉じこもるように、自分の世界を大切にした生き方に戻りたい。ひそかに、そう願っている。土台無理な願望かな。