kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<19> 夢遙か、我が忘れじの名物先生

 たまに、学校の恩師の夢を見る。今だに夢に出てくるのだから、相当なインパクトを与えた先生たちだ。これほどの名物先生、私の心だけにしまっておくのはもったいない。ぜひ紹介したい。その名物先生は結構いる。今回は小、中、高校から、えいやっ!という気持ちで各限定1名の紹介である。

 小学校にはいろいろおられた。安平先生(さすがに仮名にさせてほしい)の、あの赤ら顔が真っ先に浮かぶ。お酒が相当いける口であった先生は、いつも赤ら顔をしておられた。実に豪快な先生であった。クラスには、自由奔放、やんちゃな男子がいて、いつも先生にしかられていた。そのしかり方が半端でなく、3メートルほどもある太い竹を抱え、その子の頭をガンガンたたかれるのである。今なら、体罰を越えて犯罪行為となるしかり方であった。その子は、たたかれてもものともせずやんちゃを続行するのであるから、大したものだ。 教師も児童も、バンカラの大人物がいたようだ。

 確か、若くもないのに大型バイクを飛ばし、片道1時間ほどの遠距離通勤を続けておられた。たまに先生は、高級料亭に出かけた経験を年端もいかない私たち児童に自慢げに話されていた。安月給の身の上では、よほど嬉しかったのだろう。「キュウリでも、スーとまっすぐなやつが出てきて、ほんまにおいしいんや」と話されていた先生の悦に入った顔が、なぜか忘れられない。子どもは誰も、こんな大人世界のこぼれ話が大好きだ。

 中学校にも名物先生は多数いた。城田先生は理科の先生。実に多才であった。黒板には印刷物のような活字を美しく書かれ、背を向けて板書中もずっとしゃべり続けられた。50分間、まさに隙のない授業で圧倒された。自慢なのかどうか、黒板の板書は消さずに退室されるのが常であった。次に教室に入ってくる先生は、その美しい板書に驚嘆の声を上げられた。その光景も、生徒にはちょっと見ものであった。バレーボール部の顧問もされ、あのトスさばきの華麗さは今だに目に焼き付いている。教師の模範のような先生であった。

 高校の先生は個性派ぞろい。ピカイチの個性派先生を紹介しよう。枝野先生は結構神経質で、こだわりの強い先生であった。入浴時にも石けんを使わないという変わり種でもあった。そのことを堂々と公言される。趣味も多彩であった。テレビで映画のロードショーを視ては必ず大学ノートにびっしりと感想を書き、その大学ノートがすでに5冊たまったと嬉しそうに話しておられた。ホームルームには他の先生をつれて即席バンドを結成し、ギター担当でフォークソングを奏でる。昼休みには、中庭で同僚相手にピッチング練習。さぞ、天国のような教員生活であったことだろう。
 そのくせ、授業はまめであった。「それでは、一献書いてもらおうかのう」、広島弁丸だしの先生の口ぐせであった。「楊貴妃がどれほど美しかったというと、ハンカチで汗を拭うと、その汗は桃色に染まったんじゃ」と真顔で話される。ほんまかいな、と思いながら、今でもその逸話が記憶に残っているのはなんだろう。

 こうして大学に入ると、名物先生との出会いはピタリととまった。一人で自ら歩んだ研究の道程がよみがえるばかり。

 幼きころの学校の先生の影響力は絶大なり。このことを肝に銘じて、教員予備群や現役教員は日々の鍛錬に励むべし。子どもひとりのその後の人生行路を決定するほどの影響力をもつのだ。

 大学教員としては、悔しくも、うらやましい存在なのだ、学校の先生は。忘れじの教訓としてほしい。