kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<29> 秋に想う。同窓会に行くもよし、行かぬもよし、それぞれの人生。

 紅葉の季節を迎え、秋たけなわである。なぜか、この季節になると、同窓会の案内がよく届く。冬の到来の前の、この寂しげな季節が、ノスタルジーへと誘うのであろうか。

 その案内は、中学校、高校、大学と多くの校種にまたがっている。さすがに小学校はないが。同窓会への参加を待ち焦がれる人には、会を企画してくれる幹事の方は実にありがたいことだろう。敬意を払うべき仕事ぶりだと言える。 

 しかし出不精の私は、どれにも参加したことがないのである。案内のハガキを見るたびに、それぞれの学生時代を思い出し、懐かしい気分に包まれるのだが、実際に参加するという行動に出たためしはない。

 なぜ参加しないのか。その理由の1つは、目的なく、必要もなく、過去を振り返える暇がないことだと見ている。個人的には、好んで、久しく合わない知人には会ってきた。それは、会う目的があり、会う必要があったからだ。実際に会ってみて、例外なく良かったし、今後も何度も会って見たいとも思っている。これは、作為した同窓の集団の形成ゆえに、好んで入ろうとは思わない状況とは対比されよう。 

 そう言わずに、昔を懐かしむ気持ちひとつで参加したら、という別の声もどこからか聞こえてくるが、やはりそうはならない。

 このことと関連して思い出すことがある。ちょっと前に母校の大学で講演に呼ばれ、話をしたことがあった。その母校ですら20年ぶりというご無沙汰状態であった。それも、出かける目的と必要がなかったからである。
 しかし、行ってみて、恩師に会い、旧知の先輩や後輩に会って話しをすると、実に楽しいのある。心がほかほかするというか、生きてきた実感がわくというか、とにかく良いのである。そこに理屈はない。その出合いを包み込むように存在する母校もまたありがたい。啄木の、ふるさとの山はありがたきかな、とは正にこのことだ。

 そう思い出し、昨日届いた中学校の同窓会のハガキを見直した。差し出し人の顔が浮かばず、思いを巡らしていたら、たぶんあの子だという人物にたどり着き、しみじみと当時の生活が思い出され始めた。あの頃は、やんちゃな毎日、刺激わんさかの毎日であった。ちょっとバンカラの生活で、結構透き通った心をもって毎日を過ごしていた、と思う。今になれば、思い出すのは、珠玉の美しい出来事ばかりだ。
 かつて住んでいた彼の地から海を隔てた遠方に住んでいるこの身には、なおさら懐かしい。ちょっと出かけてみようかな、という気持ちも出てくるわけだ。

 目的もなく、必要もなく行動することこそ、人生の彩りではないか、と自問もしてみる。同窓会は来年の3月らしい。まだ時間がある。出かけるのもよし、出かけぬのもよし。いずれの結論も良し悪しがないという状況は、迷い考えるには妙に心地がよいのはなぜだろう。こんなことなら、迷ってみたいというしろものだ。


 良悪がつきまとう選択の時は緊張感が伴うが、この迷いは淡いノスタルジーを喚起し続け、秋の季節にとてもよく似合っている。