kydhp49’s diary

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<33> 仏教と心理学 ― 空海と親鸞を超える心理学はあるのか ―

 最近、マインドフルネスやセルフコンパッションという研究テーマが心理学で流行っている。マインドフルネスとは、今ここに注意を集中し、過去や未来への憂いから解放される心の動きであり、セルフコンパッションとは、どんな状況下でも「あるがままの自分」を肯定的に受け入れる心の特徴と言える。いずれも仏教思想に源流をもつ心の機能で、仏教から心理学が学んでいるという状況である。

 こうなると心理学の研究者である私は、もう少し仏教を学んでみたくなった。そう言えば、昨年末にはバンコクで黄金色まばゆい仏閣を訪れ、瞑想の鍛錬の場にも出かけたところである。

 日本人は仏教徒が多いが、最近は宗教に無縁の若者がほとんどである。各家には檀家となっている(いた)仏教宗派があるが、自分の家がどの宗派に属しているかご存じだろうか。近しい人が亡くなって、あわてて宗派を確認する家も多いと聞いている。そのくせ、葬儀には仏教の僧侶がかならず訪れ、お経を読み、仏教に則る一連の儀式を行い、見送るのものはそれで一応の心の区切りをつける。日常と非日常、そして仏教との異様とも言える関係である。

 仏教を勉強してみたい思い立つと、まず、過去の偉人と言われるほどの僧侶を調べてみた。まずは、四国に住む者にはなんといっても空海である。空海が開いた真言宗は日本で2番目の信者数を誇る。空海の伝記といえば、司馬遼太郎の「空海の風景」だろう。早速全2巻の文庫本を取り寄せ、読んでみた。大学生のころ、空海の映画を見ておよその人生と人となりは知っていたが、やはり天才中の天才だ。高村薫の「空海」もその天才ぶりを如実にとらえていた。

 語学の天才でもあったようで、中国に渡ったときもその語学力を存分に駆使して密教の奥義を短期間で習得したようだ。同時期に中国に渡った最澄と比較しても、その能力は際立って高い。「弘法にも筆の誤り」との古事にもあるように、当時三筆と言われた能書家の1人でもあった。残念ながらその密教の教えの詳細を理解することはいまだできていないが、和歌山県高野山に一大宗教都市を築き、死後も生き永らえるかのように君臨し、56億年後には弥勒菩薩として降臨し、すべての衆生を救うとの伝説は、死後にも響くその存在の絶大さを物語る。

 空海の次は、やはり親鸞である。親鸞が開いた浄土真宗は現在最も信者が多い宗派である。親鸞の波乱に満ちた生涯を吉川英治の「親鸞」全3巻で読むと、空海の生涯が比較的順風漫歩であったのとは対象的である。旧仏教集団から疎まれ、流刑の憂き目にも会いながらも民衆に受け入れられていく生涯は壮絶でもあった。

 司馬遼太郎無人島に1冊もっていくとすれば親鸞歎異抄だと言っていたと聞き及び、読んでみた。比較的単純明快な内容であったが、南無阿弥陀仏のお経を唱えることの意味が身にしみて伝わった。法然上人から親鸞への受け継がれた浄土宗から浄土真宗の流れであるが、親鸞の高潔な人格とともに人々を引き付けてやまない宗派である。親鸞と比べると、空海はやはり政治家的な色彩が濃く、どちらも天才であったが、空海の方は現実的な野心が強かったみる。その点、親鸞は暖かみを感じさせる人格者であったようだ。妻をも娶る日常の人でもあった。
 
 私自身は学徒の頃から、仏教からキリスト教まで多くの宗教にふれたが、いずれの宗教にも傾倒することができなかった。あの分厚い旧約、新約聖書も3度ほど読んだが、そんな頭でっかちな姿勢は宗教には無用という体験だけが身にしみて残った。ひとえに必要なのは信心であり、私にはその才能がなかったと、自分自身を見限ったのも遠い昔の苦い思い出である。
 
 今また心理学の研究に押されて宗教の扉を叩いている。今度は、少しはましな結末が来るのだろうか。心理学の研究者としても、空海親鸞の足下にでも及ぶ仕事ができるだろうか。どちらも、人を救うという仕事は共通なのだが・・・。