kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<15> 胸しめつける、郷愁の母

 卒業の季節。研究室の学生たちが巣立った。静寂の院生研究室に佇む。実に静かだ。胸を覆う惜別の情。この悲しみは何なのだ。毎年のことなのだが、教員稼業のなんとせつないことか。
 出会いがあれば、別れがある。重々に承知している。しかし、別れがない出会いはないものか、とも考えてしまう。物理的な別れはあっても、精神的に分かれを断つことはきっと可能だろう。

 彼らはそれぞれ希望に胸ふくらます世界に入っていく。それなのに悲しむとは、なんと自分勝手なことか。いつまでも自分のもとに置いておくことはかなわぬのに。そう言い聞かせるのだが、この思いはどうにもならない。裏を返せば、本当に充実した教育・研究指導ができたと思っている。悲しみ以上に、彼らの今後の活躍に期待し、そう祈っていることも事実である。

 子が巣立つとき親もこのような心境であろうかと考えて、はたと気づいた。逆に、子が親と今生の別れを経験するときの悲しみはどうだろう。一昨年に父を見送った。自由に人生を謳歌した父。その父を支えきった満足に、悲しみよりも感謝と満足の気持ちで満たされた葬儀のときであった。親の死を悲しむよりも、悲しみを圧倒するほどの孝行を生前になすことが子のとるべき徳というものだ、と威勢を張ってみても、一抹の後悔は残り続ける。しかし、意外と納得のいく別れには驚いたものだ。

 さて、年老いた母親に思いを馳せればどうだろう。尽くせない。どれほどの孝行をなしても尽くせない。その思いに圧倒されるばかりだ。子どもにとって母親の存在価値は絶大なのだ。もし母が旅立ったら、私は立っていられないほどの悲しみに打ちひしがれることになるだろう。
 母親の胎内から生まれ出たこともあろうが、やはり幼いころ母親から受けた慈しみは生涯に渡りぬぐい得ぬ心の堆積物になっている。幼いころから今日までの、母親から受けた無条件の愛が心にしみる。見返りのない愛は、受けた後には忘れ得ぬ恩情とともに重く受け止められる。孝経の一節に「身体髪膚、之を父母に受く」とあるが、母に受く、という思いが自然と強まる。

 よし、母親が亡くなるなどとは金輪際考えずにおこう。人は生まれときから死という悲劇の運命を背負うことになるが、その悲劇を忘れる仕掛けが幾重にもなされ、我々の日々の生活の安寧は守られるはずだ。今を楽しみ、来る日々の朗々とした輝きを信じて生きればよいのだ。母が亡くなるようなことがあれば、圧倒的な悲しみには所詮あがなうことはできないだろう。せめて今は、精一杯母親との毎日を享受しよう。

 こう考えて分かったことがある。学生の巣立ちを大いに悲しむがよい。それは偽りのない正直な気持ちだ。もっともなことだろう。せめて、彼らが学生のうちは、学生との生活を楽しもう。悔いのない最高の指導をしよう。そして、巣立つ学生への悲しみの背後で、前途洋々たる未来を陰ながら祈ればよし。教師とはそういう宿命なのだ。いや、教師冥利につきると言わねばなるまい。これも、また幸いかな。
 人生は、心の持ちようでどのようにも輝いてくる。そう、心の持ちようで。