kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<43> 学校教育における三大問題への対応 ― 論文三部作の完成 ― 

 現在の学校は問題が山積している。なかでも、いじめ、不登校愛着障害は、対応が急がれる三大問題と考えている。そこで、この問題について、特徴と対応を詳しく論文化しようと、3年前から一つずつ問題を絞って書いてきた。そして、この3月に3本の論文が出揃う。 

 完成した論文のタイトルをあげておくと、「愛着と虐待」、「『不登校』の問題とその対応」、「『いじめ』の問題とその対応」である。いずれも、独自の切り口でこれらの問題をとらえることができたと考えている。 

 通常、研究者は、論文を書いてそれで止むという姿勢をもっていることが多く、それでは社会貢献という点ではものたりない。これが研究界が批判される所以である。そこで、私はできるだけ実際に介入をかけ、子どもたちを健全化へ導こうとしようとする。つまり、研究での知見を実際の応用介入に適用するのである。 

 介入への私のスタンスは完全予防である。問題は、起きないうちになんとかすることが抜本的な対策になる。そこで、こられの問題を生じないようにする予防教育を長年開発し、また実践してきた。今年は、全国で17ほどの学校でこの予防教育が行われた。 

 この数字が多いのか、少ないのか。全国の学校数からすればほんのひと握りの学校数であることは間違いない。しかし、予防教育など、いわいる心理教育プログラムがこれほど数の学校で行われることは希有な例であろう。 

 もちろんこの数字で満足などしていない。さらに多くの学校での実施を期し、教育の改善と広報に努めている。 

 NPO法人予防教育科学アカデミーでは、この3月に、昨年同様、今年度予防教育を実施していただいた代表学校のコーディネーターの先生にオンライン上で参集いただき、感想なり要望なりを自由に交換し合う会を実施する予定である。 

 昨年度も、まだ実施したことはないが予防教育に興味をお持ちの学校の先生が多数集まっていただきいた。予防教育の実施の輪が広がるために、今年もぜひそう願いたい。 

<42> 今年2冊目の書籍の出版 

  今年に入って2冊目の書籍を出した。 

 「日本の心理教育プログラム ―心の健康を守る学校教育の再生と未来―」(福村出版) 

 私が編著者になり、総勢16名よる書籍である。 

  私たちは、学校で健康と適応を守る予防的な教育プログラムを開発し、実践してきた。それは貴重な試みであったと思う。しかし、必要にもかかわらず、この種のプログラムが学校で、安定して恒常的に実施されることはいまだにない。 

  なぜなのか? なにが足りないのか? どうすればよいのか? 子どもの健康や適応、つまり生命を守ることは何より大切なことは誰もがわかっているはずなのに。現在の日本における心理教育プログラムを広く紹介しながら、この問いに対して回答を提示しようとしたの本書である。 

 16名の執筆者が、それぞれの立場からこの難問に挑んだ。渾身の一冊になったと自負している。どの執筆者も熱い思いをもって語ってくれた。誰もが実体験をもとに書いているので、いずれも心に響く内容となった。 

 そして本書では、日本の学校教育の行く末を案じ、これから学校はどのように変貌を遂げる必要があるのかも存分に語った。子どもたちの健康や適応を語っていると、どうしても触れなければならないのが、現在の学校の問題になる。 

 むずかしい語り口は封印し、平易に、読んでいて楽しくなるように全編が貫かれた。随所に挿入されたイラストもかわいく、章間に挿入されたトピックも実態に基づくもので迫力があった。 

  最後の座談会は、どうだろう。この領域で長年やってきた5名が集まり、喧々囂々の討議を繰り広げ、なかなかの見物である。 

  さて本書をもって、子どもたちの健康と適応、ひいては幸多き生涯を守る方向に学校は舵を切るだろうか。そのことが、本当の学びを促し、知的側面までも伸ばすことにも気づいてほしい。 

  少なくとも、この書籍を皮切りには、私たちの活動は加速されることだろう。

 

出版社による詳細:

 
アマゾンに寄せられたレビュー:

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<41> 我が恩師を見上げて 

 大学と大学院で教えを受けた恩師が、昨年7月にお亡くなりになった。享年92歳の天寿であった。 

 コロナウィルス禍で私たちが参列できる葬儀は執り行われなかったので、私たちは、せめて先生を偲ぶ会をもちたいと願っていた。それが、この5月7日に母校で開催された。 

 先生のお人柄からか、200名を越える関係者が集まった。教え子だけではなく、友人、もちろんご親族まで大勢の方が集まった。会では、先生が偲ばれる授業時の動画や写真など胸を締めつけられるような思い出が数多く披露された。 

 もちろん先生との思い出のスピーチもあり、僭越にも私もスピーチをさせていただいた。スピーチは4分ほどに限定されていたので、十分な話はできなかったか、それでも私と先生との思い出を一端を語ることができた。 

 そのときのことを思い出しながら、何を話したのかを懐かしむように思い出しながら、ここにそのスピーチのおよそを掲載し、先生との思い出を共有をさせていただきたい。 

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  先生,ゼミ5期生の山崎です。 

 早くこの会をと願っておりましたが,いざ始まると悲しみが募ります。 

 私にとっては少しつらい時間になりますが,お話しをさせてください。 

  私は,学部から10年間,先生のご指導を大学と大学院で受けました。その後ずっとご指導を受け続け,その間,ざっと45年です。

 大学での生活は決して平坦なものではありませんでしたが,先生からは,多方面にわたり得がたい教えを授かりました。   

 研究面では,先生のネイティブ並の英語力と卓越した実験センスのもと,インパクトのあるご指導をいただきました。私には偏屈な研究姿勢がありまして,それでよいのか常々不安に思っていました。あるとき関西心理学会から先生と二人で帰ったのですが,そんな私の不安を察知してか,「かっちゃん,やりたい研究をやりたいようにやったらええんや」と言っていただきました。先生は,人の心の痛みに寄り添い、癒すように行く道を示してくださる方でした。 

  立ち居振る舞いや礼儀は、びしばし指導していただきました。これは,今の私の宝です。先生のゼミを範とする私のゼミで同じように指導していて気づきました。この指導は実にしんどい,力がいります。先生は,こんな辛い指導を私たちのためにしてくださっていたのです。先生の学生指導力は他の追随を許さないものでした。 

 つらい出来事もありました。阪神大震災です。直後にご自宅をたずねしたのですが,一大パーティを繰り広げたあの大広間が瓦礫の山になっていたのです。気丈夫にだいじょうぶやとおっしゃった先生。あれほどお苦しい中でも,心配をかけまいとお心遣いしてくださる先生でした。 

  先生とは,ご逝去の3年前に母校に講演に行ったときお会いしたのが最後です。演壇前3メートルのところで聞いていただき,最後にご配慮に満ちたお言葉をいただきました。偉大な指導者の不肖の学徒は,最後まで幸せな学徒でした。 

 その後お亡くなりになる一年ぐらい前から音沙汰がない状態が続きました。そして,突然の訃報。一年前から何があったのか。お嬢さんからその様子を聞きました。胸がしめつけられるような思いになりましたが,お嬢さんやお孫さんに囲まれ安らかにお眠りなったと拝察します。 

 しっかりもので、心遣いが優しいお姉ちゃん,お姉ちゃんファーストで思いやり深い妹さん。これ以上ないお二人が,今ここにおられます。先生,安心ですね。これからも,奥様とともにお嬢さんたちをお見守りください。私たちも寄り添います。 

 思い出は尽きず,感謝の念を禁じ得ません。 

 先生,長きにわたり、本当に,本当に,ありがとうございました。 

<40> 講演テーマは、とめどなく広がる 

 ここ2年、リモート講演会を多数回開いて来た。そこでの講演テーマは広がり、「発達の道すじ」のダイナミズムを皮切りに、「不登校」の原因の多様性を伝え、「いじめ」を終結させる方途を主張し、「本当の自己肯定感」の謎に迫り、学校周辺や人間が余儀なくされる喫緊の最重要テーマを立て続けに扱って来た。  

 そして、この2月には「愛着と虐待」という、さらに重要性を増す近年の話題について掘り下げる。その後も、今頭に描いているのは、「学校教員を過酷な現状から救う」、「発達障害への対応はこのままでよいのか」なども次々に視野に入れている。  

 いずれの場合も、独自の視点をもって介入への切り込みを鮮明化した内容をもたせたることができたと考えている。講演の後は、できるだけその内容を論文化しようとし、事実論文化は講演にほぼ追いついている。今後もその姿勢を保つつもりだ。  

 講演をする、論文を書くことにはその発信には自信はあったものの、いざ発信となると、いろいろと細部を調べ直す必要にも迫られた。そして、そうすることで、各テーマの理解が厚みを増すという、好循環が期せずしてついてきた。  

 今や、人間の幸福や学校の問題について、ほとんどの質問に即答できるのではないかという、傲慢とも言える自信を感じている。これは、自分への過大評価なのだろう。しかし、そうとは言えないほどの実効性が回答にはともなって来たと信じている。しかし、まだまだ調べ、考えることがある。それほどに、人間にまつわる問題は難解を極める。この領域では、謙虚に進める姿勢を欠くことはできない。  

 さて、次回の「愛着と虐待」の講演。もう一度、発信する内容を振り返り、不足があれば踏み込んで調べ、考えてみよう。そのプロセスが自分自身を豊かにし、聴衆のみなさんにいただく時間を、またとない貴重なひとときに醸成する。  

<39> 夢多き大学院学生に幸あれ!

  大学から大学院にかけては、いろいろと悩むことが多い。私もその例に漏れなかった。  

 なぜか、無謀にも、高校時代から研究者になると決めていた。なにがきっかけだったのか、思い出せない。今思えば、不思議なものだ。しかし大学に入り、専門領域に進む手前で迷ってしまった。文学か、哲学か、心理学か。どうしたものか。何がしたいのか。そこで、古典と言われる、評価が定まった書籍を読みあさった。そこで答を得ることができるような気がしたのだ。そしてそのとおり、読書して自然とわかったことがある。私には科学的思考スタイルがあっており、それなら、この3領域では心理学になる。曲がりなりにも、心理学は科学を標榜する学問だ。 

  心理学に決めたがよいが、今度は臨床(応用)か基礎かで迷った。そこで、まず臨床心理学の先生のところに相談に出かけた。すると先生は、「きみは、ずっと心理学をやるつもりか?」と尋ねられた。迷うことなく「はい」と答えた。「それなら、基礎から始めなさい。応用的な臨床研究はいつでもできる。その逆は無理だ」との答えが返ってきた。その回答は妙に迫力があり、私の選択は決まった。基礎心理学、どうせやるなら医学や生理学に近い基礎心理学となった。 

 しかしいつかは臨床をやりたい。その思いを胸に研究を続け、どこで交わるのだろうかと楽しみにしていた臨床の世界には、研究を始めて15年ほどで出会った。基礎研究で培った研究成果が自然と臨床に直結した。基礎研究に支えられた私の臨床的研究や活動はしっかりとした科学的根拠をもっている分、強みがあると感じている。人の健康や適応を守る活動には科学的根拠が必要だと、今も確信している。 

 そして今、私の研究室は基礎と応用の両輪を走らせる、たぐいまれなる研究室となった。 この両輪がそろわないと、基礎も応用も粗末な研究や活動になる。

 さて大学院生たちよ。きみたちは、これからどこへ向かうのだろう。もう目指す先が決まっている者は、まっしぐらにそこを目指すがよい。まだ道に迷っているものは、無数の選択肢の中から、まだ見ぬ素晴らしい未来が待っていよう。希望だけが前途にあるではないか。私にはそう思えてしかたがない。 

 大いに悩むがよい。悩んだ分だけ、未来が開ける。今、私の大学院の学生を見守りつつ、そんなことを考えている。  

 夢多き大学院生に幸あれ! 

<38> 「英語を勉強する交流広場」のありがたさ 

   NPO法人「予防教育科学アカデミー」を設立して半年過ぎたところである活動はきわめて順調に進んでいる。最近立て続けに開催しているオンライン講演会を筆頭に、様々な活動が付加され続けている  

 そのなかにEnglish Writing 交流の広場」がある。これは子どもの健康や適応にかかわる研究者を育てるため、とくに英語面からのサポートとしようという事業である。英語の資料を読なければ、情報は大きく限定される。週2回投稿のノルマはあるが、そんなものはたやすいノルマだろう。わずか、1文投稿でも1回になるし、長文の投稿は禁じられているのだから  

 言語は、読み、書、話すことが増えれば増えるほど身につく。赤ん坊が言葉を習得していく過程をそのことは一目瞭然だろう。とりわけ、書くことが一番精神的負荷かかる。何かをなすことにはエネルギーを使うが、その中では産出度の高さ、創造的活動面の高さ、書くことが群を抜く  

 私の勤務する大学では中国からの留学生が多い。さすがに日本語の習得は難しいらしく、特に書くことは苦手の様子。しかし、日本にのだから最高の日本語習得環境にいることになる。しかし、しかしだ。彼らはその最高の環境を生かていない。中国人同士で話し、日本語の経験度を自ら低めている。何ために日本にいるのだろうか? せっかくの機会なので、十分日本語をマスターして母国に戻ってほしい。  

 私のことで言えば、アメリカにいるときは日本語という日本語を避けることに努めた。見るもの、聞くもの、書くもの、読むもの、英語オンリーの世界であった。日本人の交流の場にも誘われたがきっぱりと断った。さぞ人付き合いの悪い人間と思われていたことだろう。アパートの壁じゅうに単語シートを貼り付け、映画DVD音楽CDも本場のものを何度も何度も繰り返し聞いて英語を身につけようとした。 

 確かに、語学の習得には個人差がある。しかし、特殊な職業につくことなければ、外国語は単なる道具で、誰でも習得できる。しかし、これだけは言っておきたい。何十年も海外にいても、いたずらに過ごしていればその国の言葉は決して身につかない!  

 こう書いていて、よく思い出すのは、日本文学者のルドキーンだ。アメリカ人であったが日本人以上の日本語を話し書けば日本の作家以上の上質の文章を書く一般にはあそこまで極める必要はなかろうがバイリンガルでなくても語学は結構上達するということだ 

 私にとっての英語は道具である。その習得が目的ではなく、他の目的のための手段である。そう考えるとNPO法人で運営するEnglish Writing交流の広場はベストの環境となる。参加希望者には、英語習得への道が大きく開かれている 

www.yobokyoiku-academy.com

<37> ウェビナーでのオンライン講演会の限界と期待 

 先頃、Zoomのウェビナーを使って講演会を実施した。健康や適応に大切な心の形成と働きについての総合講演であ。私の講演では、最初に聞いてもらいたい講演でもあった。 

  授業や会議では、TeamsやZoomを使って、このコロナウィルス禍の中、なんとか必要事を進めてきた。今回は、必要事というより、NPO法人予防教育科学アカデミーに主催の講演会に理事長として登壇した。この講演会は、アカデミーの年間計画に組み込まれ、その点では必須の重要なアカデミー事業となる。 

 Zoomのウェビナーは標準のZoomとは異なり、基本はセミナーや会議用で一方通行の運営に適した機能なっている。この点、標準よりも契約月額が2倍以上と高額なる。 

  30名限定で始めたが、最初は宣伝が行き届かないためか、集まりの立ち上がりは遅かった。しかし、実施の2週間前には定員を超えて参加者があった。さすがオンライン講演ということで、北は宮城県、南は愛媛県まで幅広く参加者を得た。この広域からの参加もオンラインの強みでろう。 

  実地での講演会さらながらの状況にすため、ビデオカメラからPCに映像を取り入れ、音声は手持ちのコンデンサーマイクと会場の音を広く拾う広角マイクをミキサーで拾って流すことにした。カメラには操作者が1名つき、固定ではなく状況にあわせて遠近の調整を行った。 

  講演後には、質疑に入った。この場合、Zoom上で質問を投稿してもらうか、アカデミーのメールアドレスに送ってもらうか迷ったが、結局は、Zoom上に投稿してもらった。50通ほどの質問があったので、即座に選んで回答するのは思いの他むずかしく、今後の改善点が多々見えた。 

  オンライン講演のむずかしさは聴衆が見えないことだ。今回はそのため、発信部屋にはわずかながら聴衆に入ってもらい、その人たちに語るように話し、無味乾燥さというか孤独感は少し軽減された。 

  書籍と同様に、全国へと発信できることは実にありがたい。この利点は捨てがたく、時間を置かずに次の講演を計画したい。1月には、不登校をメインテーマにした次の講演が告知された。どうぞ、ご参加ください。 

  1月23日(土)に行われ、不登校について、おもしろく、斬新な話になる予定である。 

 申込(無料)と詳しくは、以下へ。 

  https://www.yobokyoiku-academy.com/ 

 

<36> 数学の天才たち ―解き明かされたフェルマーの最終定理とABC理論― 

    数式には強い方ではないが、専門書ではな数学や物理学関連の物語り本を好んで読む。200の時を超え、ニュートン力学を塗り替えたアインシュタイン理論に魅せられたのがそのきっかけかもしれない。常識を覆したアインシュタインの相対性理論はやはり迫力があった光の速読は不変、時間の進みは変動する、エネルギーは質量と光の速度の2乗、いずれも難解中の難解な理論と現象であるがロマンとも呼べる不思議の世界を予測した。 

 理論が予測する現象がことごとく実証されるのも物理学の世界の真骨頂だ。このあたりは、曖昧な科学である心理学とは随分違う。なにせ心理学では、100年以上の前の見解を交え、ひとつの領域に多くの見解が今なひしめき合い、相互に否定への決定打を打つことなく平然と併存している。 

 その点、数学や物理学の世界は冷酷までに白黒の決着がつく。サイエンスライター、サイモン・シンのフェルマーの最終定理を読まれたことがあるだろうか。この定理もフェルマーが360年ほど前に明確な証拠を残さず証明できた」と伝えた難問だ。しかしその、多くの数学者が試みたが、誰も証明に行き着くことはなかった。この難問を、米国プリンストン大学数学者アンドリュー・ワイルズ1995年に解き明かた。そのプロセスは壮絶かつ孤独の7年で、一度証明結果公表したものの、査読の過程で間違いが指摘され、その後教え子の力を借り1年がかりでようやく瑕疵がない証明に至ったという難産であった正しいものは正しい、間違っているものは間違っていると決定される、数学の潔い世界である 

  その間彼の頭は数学漬けであったろう。その状況は幸福だったかどうか、わからない。解が見つからない状況はストレスに満ちたものであったはずだ。そして同時に、数学者にとって、それが生きている瞬間なのかもしれない 

 最近では、ABC理論を証明した望月新一氏の偉業が世間を賑わしている。京大発行の一流数学誌への投稿から査読終結に7年以上も費やし、なんとかアクセプトされという希有な偉業である。査読した方も、さぞかしストレスに満ちた作業であったろう。フィールズ賞受賞したある学者いまだにこの業績を断固として認められないと批判しているらしい 

 この偉業以前に、友人の加藤文元氏著の「宇宙と宇宙をつなぐ数学」を読んでおり、その理論の中身はよくわかならかものの数学の基礎を塗り替えるほどの理論の誕生に心が躍った。日本の数学者と言えば岡潔が有名であるが、あの奇人ぶりからすると望月氏はすこぶる常識人のように見えるが、本当のとこはどうであろうか。 

 しかし、一大発見をする人には不幸のドラマがあることが多いアインシュタインチューリッヒ工科大学での冷遇など苦境のときがあった。数年前、同じ大学の校舎前広場に立ち、そこから見えるチューリッヒの街並みを眺め入りアインシュタイン傷心の気持ちで見たであろう同じ情景、心に染み入る深い感動があった。この点、ワイルズも望月氏実に幸いな数学者人生を送っていると言えるかもしれない  

 昔、大学のゼミの先生が、どの学問をやっていても数学をやらなきゃだめですよと言われていた。この美しい数式あふれる学問に頭を浸すことは、確かにすべての学問の基礎になっているように思えてしかたがないのはなぜだろう。 

 

<35>  誕生! 子どもたちを健全化する新しい組織 

 特定非営利活動法人NPOとして「予防教育科学アカデミー」が設立された。 

 現在16名の社員がいて、活動を始めている。主な事業部門は4つあり、 

 

 「学校での予防教育実施支援 

 「不登校いじめなど学校問題に悩む教職員への支援 

 「子育てや幼保活動の支援 

 「子どもの発達にかかわる研究者や教育者の育成 

 

である。社員それぞれの経験や技量が結集し、その総和以上の力が発揮できることを期待している。 

  長年予防教育を全国の学校で実施してきたが学校で予防教育を受けることができない子どもたちがいることに苦慮していた。なんとか、この子どもたちに予防教育を受けさせることができないか。この悩みを解消することを目指して誕生した組織である

 不登校で学校に来れない、予防教育を実施できないほど学級が乱れている、そもそも大切な幼少期に問題のある養育を受け、その後の生活に支障を来している子どもたちが多い、と、予防教育の実施を阻む要因が多々あった 

  なんとか予防教育にまでつなぐことができれば、子どもたちを救うことができる。その思いに貫かれた組織でもある。乳幼児の養育や教育、学校での問題解決と予防、そしてその研究者や保育・教育者の育成まで、子どもの健全な育成に必要な活動このように統合された組織は他にはないだろう。それぞれの活動が独立するより、相互に連携を取り合いながら効果的な活動ができるように高め合う組織は大いに期待できよう 

  確かにこの融合が大切になる。互いの進展と障壁を知り、相互に情報交換と相談を繰り返しながら、不足している部分を補い、協働しながら進むのである。このような事業や領域はこれまで独立して進められてきた。同じ子どもの問題であるのに、それでは不十分。このような組織の誕生が長らく待たれていた。 

  講演や研修だけではなく、子どものことで日夜苦労されている方々といっしょに実地で問題を解決していきたいと考えている。特定非営利活動法人は、みんなで協力して進める法人である。多くの賛同者を得て、またいっしょに活動ができる同志を得て、目標に向かって突き進みたい。 

  気軽にアカデミーに声をかけていただき、子どもの健全な育成への一大目標に向かって共に進みたい現在様々な活動が計画されている。発足間もないが、今後立て続けに主催するイベントが開催される。 

 センターウェブサイトをときどき覗いてみてほしい。 

 https://www.yobokyoiku-academy.com/ 

<34> オンライン授業を限りなく対面授業に近づける ―その成否は如何に?―

 コロナウイルス禍の影響で、大学の授業は軒並みオンライン授業と化した。私の大学もその例にもれないが、リアル対面授業の良さをオンライン授業で失うわけにはいかない。

 まずはオンラインアプリを探り、ZoomかTeamsかと迷ったが、Office 365を使う身では自然な流れからTeamsとなった。Stream, Onedrive, FormsなどOffice関連のアプリとの連動が抜群であった。もちろんZoomにはZoomの良さがあり、外部の会議はほぼすべてZoomで招集されている。Zoomには一頃セキュリティの脆弱さが指摘されていたが、改善によりその指摘も影を潜める昨今である。

 オンライン授業の難関は、対面授業で駆使していた小グループでの討議と全体討議のスムーズで頻繁となる切り替えだ。つまり、2次元上で展開されがちなオンライン授業に3次元上の深みを取り入れる必要がある。これはちょっと工夫が必要であったが、Teams内のchannel機能を駆使して、なんとかリアル対面授業に近づけた。ポイントは、全体授業と小グループ活動の1、2秒以内での円滑な移動を頻繁に導入できる操作性の高さだ。移動にまごついていては使いものにならない。

 最近は、Teamsには挙手機能も備わったので音声だけの意思表示ではなくなったのも嬉しい。これにFormsやOnedriveなどOffice内アプリとの連動が保証されれば、意外とよい授業になる。時間的な問題から討議の活性化は授業外で行うべきだという信念がある私は、10年ほど前からmoodleというプラットフォームで、テキストベースの討議手法を導入していた。わずか15名ほどの受講生でも週に300通を超える意見の応酬があり、壮観かつ有意義であった。このプラットフォームでは、最近のslackも使えそうだ。

 対面授業と比べても、オンライン授業にも軍配があがる要素は沢山あることは指摘しておきたい。研究室、そこでのPC内、あるいはネット上の世界中の選りすぐりの情報を瞬時に受講生に見せることができる。授業内のアンケートも簡単にでき、即刻集計して提示することができるのだ。

 難題中の難題は、受講生一人ひとりのネットと機器の環境や性能が異なることだろう。映像はよいのだが音声が乱れると話にならない。また、映像と音声のタイムラグは常態的に確認でき、この点が授業のテンポを崩す。5Gが当たり前になる日が待ち遠しい。

 もちろんオンライン会議は楽ちんである。授業時ほど機動性が要求されない。つまり、体力と気力がそれほど要らない。これは、対面では五感のすべてにわたる相互の作用がものを言うからであろう。もうすぐ対面授業となる。願わくば、このオンラインでの経験から、その良さが対面授業に吸収され、対面授業そのものの品質が上がることだ。

 しかし、最後に言っておきたいことがある。それは、授業の善し悪しはあくまでも機器やアプリの性能が決めるのではない。授業そのものの中身と授業者の授業運用力、そして授業者の個性なのだ。そして、この個性は、生身の授業者、生身の授業者と受講生の相互の作用からしか効果を生まない。この点、決してお忘れなく。

 最近はオンライン授業に倦んできた。まだまだICTは未熟だ。いや、オンライン授業の方が良いという向きは、一度自身の対面授業の質を再考してみてはどうだろうか。対面授業の利用価値の高さは計り知れない。これに、現在のICTのチップを埋め込むのがよいだろう。オンライン授業という、見かけの新規性と派手さに惑わされてはならない。

<33> 仏教と心理学 ― 空海と親鸞を超える心理学はあるのか ―

 最近、マインドフルネスやセルフコンパッションという研究テーマが心理学で流行っている。マインドフルネスとは、今ここに注意を集中し、過去や未来への憂いから解放される心の動きであり、セルフコンパッションとは、どんな状況下でも「あるがままの自分」を肯定的に受け入れる心の特徴と言える。いずれも仏教思想に源流をもつ心の機能で、仏教から心理学が学んでいるという状況である。

 こうなると心理学の研究者である私は、もう少し仏教を学んでみたくなった。そう言えば、昨年末にはバンコクで黄金色まばゆい仏閣を訪れ、瞑想の鍛錬の場にも出かけたところである。

 日本人は仏教徒が多いが、最近は宗教に無縁の若者がほとんどである。各家には檀家となっている(いた)仏教宗派があるが、自分の家がどの宗派に属しているかご存じだろうか。近しい人が亡くなって、あわてて宗派を確認する家も多いと聞いている。そのくせ、葬儀には仏教の僧侶がかならず訪れ、お経を読み、仏教に則る一連の儀式を行い、見送るのものはそれで一応の心の区切りをつける。日常と非日常、そして仏教との異様とも言える関係である。

 仏教を勉強してみたい思い立つと、まず、過去の偉人と言われるほどの僧侶を調べてみた。まずは、四国に住む者にはなんといっても空海である。空海が開いた真言宗は日本で2番目の信者数を誇る。空海の伝記といえば、司馬遼太郎の「空海の風景」だろう。早速全2巻の文庫本を取り寄せ、読んでみた。大学生のころ、空海の映画を見ておよその人生と人となりは知っていたが、やはり天才中の天才だ。高村薫の「空海」もその天才ぶりを如実にとらえていた。

 語学の天才でもあったようで、中国に渡ったときもその語学力を存分に駆使して密教の奥義を短期間で習得したようだ。同時期に中国に渡った最澄と比較しても、その能力は際立って高い。「弘法にも筆の誤り」との古事にもあるように、当時三筆と言われた能書家の1人でもあった。残念ながらその密教の教えの詳細を理解することはいまだできていないが、和歌山県高野山に一大宗教都市を築き、死後も生き永らえるかのように君臨し、56億年後には弥勒菩薩として降臨し、すべての衆生を救うとの伝説は、死後にも響くその存在の絶大さを物語る。

 空海の次は、やはり親鸞である。親鸞が開いた浄土真宗は現在最も信者が多い宗派である。親鸞の波乱に満ちた生涯を吉川英治の「親鸞」全3巻で読むと、空海の生涯が比較的順風漫歩であったのとは対象的である。旧仏教集団から疎まれ、流刑の憂き目にも会いながらも民衆に受け入れられていく生涯は壮絶でもあった。

 司馬遼太郎無人島に1冊もっていくとすれば親鸞歎異抄だと言っていたと聞き及び、読んでみた。比較的単純明快な内容であったが、南無阿弥陀仏のお経を唱えることの意味が身にしみて伝わった。法然上人から親鸞への受け継がれた浄土宗から浄土真宗の流れであるが、親鸞の高潔な人格とともに人々を引き付けてやまない宗派である。親鸞と比べると、空海はやはり政治家的な色彩が濃く、どちらも天才であったが、空海の方は現実的な野心が強かったみる。その点、親鸞は暖かみを感じさせる人格者であったようだ。妻をも娶る日常の人でもあった。
 
 私自身は学徒の頃から、仏教からキリスト教まで多くの宗教にふれたが、いずれの宗教にも傾倒することができなかった。あの分厚い旧約、新約聖書も3度ほど読んだが、そんな頭でっかちな姿勢は宗教には無用という体験だけが身にしみて残った。ひとえに必要なのは信心であり、私にはその才能がなかったと、自分自身を見限ったのも遠い昔の苦い思い出である。
 
 今また心理学の研究に押されて宗教の扉を叩いている。今度は、少しはましな結末が来るのだろうか。心理学の研究者としても、空海親鸞の足下にでも及ぶ仕事ができるだろうか。どちらも、人を救うという仕事は共通なのだが・・・。

<32> 幼少期から青年期までの健全な道すじを築く、夢のごときアプローチ

 子どもが、健康で、生き住まう社会に適応できることを目指し、学校で行う予防教育を開発し、実施してきた。数々の障壁に見舞われならがらも、この教育は第3世代へと発展し、学校で先生方が継続的に実施できる出来映えにまで進化することができた。10年を越える道のりを振り返ると、感慨ひとしおである。

 この教育は、子どもたちが待ち焦がれ、教育効果も抜群で、先生も実施しやすい。それに、既存の授業目標との整合性がある。ここまで条件がそろえば、学校への参入という点で申し分のない特徴を備えたことになる。

 来年度から、徳島県高知県でモデル校推進型予防教育推進事業が始まり、全国普及の布石とするプランが始まる。実に楽しみな現況である。

 しかし、これでは足りない。学校では、この予防教育を受けることさえできない子どもたちが沢山いることを忘れるわけにはいかない。不登校で、来たくても学校に来ることができない子どもたちがいる。学級が荒れていて、普段の授業がまったく成立しない学級があり、そこでは予防教育などできるはずがない。このような子どもたちを取り残していたのが、これまでの予防教育の実情なのだ。

 それで平気だったかと言われれば、「平気なわけがないだろ!」と、即刻語気の荒い言葉が出る。それほど、悔しい思いをし続けて来た。来たい以上は学校に来させ、この予防教育がどれほど楽しいものかを体感させてやりたい。学級を整えたのちに受けた予防教育で、学校の面白さを存分に味あわせてやりたい。不登校は個別の問題のようだが、実は、学級崩壊もほんの人握りの子どもたちの問題であることが多い。

 このように、目下の生き住まう環境を享受できずに暮らしている子どもたちには、何の責任もない。要は、彼ら自身ではどうすることもできなかった養育の環境に責任がある。その環境は多様なものだが、まずは親の養育環境を養育態度を含めて改善する必要がある。さらに、さらに言えば、幼少期の養育や教育を担う保育士や教員のみなさんにも、子どもを健全に育てることが、一体何で、どのようにあるべきかを知り尽くしてもらわねばならない。

 つまり、家庭での養育や教育、幼保関連施設や小学校での保育や教育を抜本的に改善し、すべての子どもが予防教育を受けることができるようにしたいのである。予防教育まで行き着けば、お任せあれ、と言える自信がある。

 これは、私一人でできるしろものではない。既存の組織にもできそうにない。そう考えると、いても立ってもおられず、動き出したのが、NPO法人の設立である。この思いを共有し、志を同じくする同士はすぐに集まった。嬉しくも、心強い限りである。そして、設立の準備を始めたのがほんの3か月ほど前のことである。その後、急ピッチで準備が進み、現在5月中の認可申請に向けて驀進中。

 子どもたちを救う、これら一連のプロセスをもった活動組織はこれまでにない。まさに新機軸の組織である。うまく行けば、今年の秋口にはこのNPO法人が誕生する。そこから真剣勝負が始まるが、よもやこの事業を失敗させるわてけにはいかず、今から多面にわたって障壁を乗り越えるシミレーションを行っている。
 
 やるからには子どもたちを守る、という燃えるような信義がこの活動を支えている。

<31> 麗しきタイの人々、活気天衝く街

 昨年の暮れ、学会でタイに出かけた。日本の旅行者には、人気1,2の彼の地である。学会はいつも通りの雰囲気でつづがなく終わり、相変わらず有意義な機会となった。しかしそれ以上に魅せられたのは、タイの人々の生活ぶりと人となりである。

 タイの首都バンコクの街は活気に満ちていた。街角で物乞いをする人も多く、都心の真ん中で露天商が所狭しと並んでいる。車に負けじと、縫うように走るバイクの群れ、また群れ。見ていてハラハラするものの、いつの間にか心地よい高揚感に包まれてしまう。貧しい暮らしぶりはよくわかるが、それがどうした、という勢いがある。

 驚くべき体験もした。滞在中の夜、道に迷い、気がつくと線路上を歩いていた。これはいけないと思い、横に飛びのくと線路に沿ってバラックやシート張りの家が連なっており、知らず知らずに家の中を歩いていた。なんと、他人の家の中を歩いていたのだ。これは無礼極まりない振る舞いだととまどっていると、住人が手招きし、こちらから出て行きなさいと、優しく出口のシートを上げてくれた。助かった。怒鳴られ、殴られても、しかたがない状況であったのだ。

 しかし、これらはいずれも、日本が疾うに忘れてしまった生きる力だ、伸びようとする力の風景なのだ。これからこの国は大いに伸びていくのだろう。天を衝くほどの勢いで。

 そう思い、日本という国に悲しみを感じたのはなぜだろう。この尊いほどの熱気をもはや失った日本に未来はあるのだろうか。確かに今は、日本の方がタイより裕福な国だ。しかし、その関係もほどなく逆転するだろう。そして、タイも繁栄の頂点を極め、日本のような衰退の道をやがて歩むことになるのだろうろうか。歴史は巡るのであろうか。さまざまな思いが浮かんでは、また消えゆく。

 それにしても、タイの人々は慈愛に満ちている。郊外のバス停で乗るバスに迷っていると、さりげなく声をかけてくれた老人がいた。先導して一緒にバスに乗り込み、車掌に降りる場所が来たら知らせてやってくれて世話までやいてくれた。どう感謝をつたえれば良いかと迷っていると、こちらの方も見向きもせず、早めの停留所で降り去った。当たり前のことを、当たり前のようにやったという老人の日常に、琴線が触れた。

 さらに、さらに、タイ語の美しい響きが、今も耳に残っている。女性なら、「コップン、カー」(ありがとう)、「サワディ、カー」(こんにちわ)と美しく語尾を上げ話しかける。優しい、実に優しい。タイ特有の踊りはどうだ。その音楽はどうだ。激しい身振り一つもなく、激しいリズムの一つもない。微笑みの国の名に恥じない笑顔もいい。その優雅な雰囲気が、見るものをノスタルジックな思いに包む。もう一度タイに行きたいものだ、と必ず思わせる決め手である。

 日本から飛行機で6時間弱。時差わずか2時間。赤道に近いとは言え、さほどの暑さでもない国、タイ。異国に行き日本を想うことが多々あったが、これほどに悲しい思いをしたことはかつてなかった。これほどに、麗しい光景に心を打たれたことはなかった。

 タイに、学びたい。

<30> 世にも不思議な、それは不思議な研究会

 昨年から新しい研究会を定期的に開催している。その名も「研究推進研究会(RP研究会)」という。

 これがまた風変わりな研究会で、参加者の研究を徹底的に推進することを目指している。参加者みんなで協力して、メンバー各自の研究の芽を育て上げる。共同研究をしているわけでもない。気まま勝手な個人の研究で、その実現の手助けをするという運営ぶりだ。

 参加者の目的はさまざま。学会誌に採択されること、科学研究費に採択されること、博士学位を取得すること、参加者それぞれの目標がある。どれも現実的な目標で、決して絵に描いた餅ではない。

 毎回研究会では、「研究ナラティブ」と称して各自の研究を、計画やら結果やら考察やらを存分に物語る。それをメンバーが講評し、なんとか発表者の目標へと結実させようとする。アイデアが飛び交い、きつい批評も出る。しかし、酷評して研究案をつぶす研究会とはわけが違い、目指すは目標の実現のみ。つまり、責任をもった、究極のサポート体制を敷いている。

 参加者は心理学が専門の研究者や博士課程の学生が中心だが、研究対象は乳幼児から成人までいろいろで、教育、保育、医学の多様な領域からメンバーが集まっている。遠くは京都や香川からも参加者を得て、毎回ガヤガヤと賑やかにやっている。おっと、開催地は徳島県鳴門である。

 今回の研究会は、全員参加の都合上日曜日の開催となった。参加者がわがまま放題、自己主張満載で開催日を決めるから、全員参加可能な日の選択が必須になる。つまり、誰もが欠席などしたくはない、貴重な研究会である。しかし、たとえ日曜日であっても、祝日であっても、他人の研究ナラティブを聞くのはほんとに楽しい。どれもワクワクするような研究で心が躍る。

 参加者には、研究上の夢を実現してもらいたいな。心底そう思う。心意気のある、心優しいメンバーの面々を前に、いつもそう感じながら、極上の時間が研究会では過ぎる。

 こんな研究会です。参加希望者は、どうぞいらしてください。

<29> 秋に想う。同窓会に行くもよし、行かぬもよし、それぞれの人生。

 紅葉の季節を迎え、秋たけなわである。なぜか、この季節になると、同窓会の案内がよく届く。冬の到来の前の、この寂しげな季節が、ノスタルジーへと誘うのであろうか。

 その案内は、中学校、高校、大学と多くの校種にまたがっている。さすがに小学校はないが。同窓会への参加を待ち焦がれる人には、会を企画してくれる幹事の方は実にありがたいことだろう。敬意を払うべき仕事ぶりだと言える。 

 しかし出不精の私は、どれにも参加したことがないのである。案内のハガキを見るたびに、それぞれの学生時代を思い出し、懐かしい気分に包まれるのだが、実際に参加するという行動に出たためしはない。

 なぜ参加しないのか。その理由の1つは、目的なく、必要もなく、過去を振り返える暇がないことだと見ている。個人的には、好んで、久しく合わない知人には会ってきた。それは、会う目的があり、会う必要があったからだ。実際に会ってみて、例外なく良かったし、今後も何度も会って見たいとも思っている。これは、作為した同窓の集団の形成ゆえに、好んで入ろうとは思わない状況とは対比されよう。 

 そう言わずに、昔を懐かしむ気持ちひとつで参加したら、という別の声もどこからか聞こえてくるが、やはりそうはならない。

 このことと関連して思い出すことがある。ちょっと前に母校の大学で講演に呼ばれ、話をしたことがあった。その母校ですら20年ぶりというご無沙汰状態であった。それも、出かける目的と必要がなかったからである。
 しかし、行ってみて、恩師に会い、旧知の先輩や後輩に会って話しをすると、実に楽しいのある。心がほかほかするというか、生きてきた実感がわくというか、とにかく良いのである。そこに理屈はない。その出合いを包み込むように存在する母校もまたありがたい。啄木の、ふるさとの山はありがたきかな、とは正にこのことだ。

 そう思い出し、昨日届いた中学校の同窓会のハガキを見直した。差し出し人の顔が浮かばず、思いを巡らしていたら、たぶんあの子だという人物にたどり着き、しみじみと当時の生活が思い出され始めた。あの頃は、やんちゃな毎日、刺激わんさかの毎日であった。ちょっとバンカラの生活で、結構透き通った心をもって毎日を過ごしていた、と思う。今になれば、思い出すのは、珠玉の美しい出来事ばかりだ。
 かつて住んでいた彼の地から海を隔てた遠方に住んでいるこの身には、なおさら懐かしい。ちょっと出かけてみようかな、という気持ちも出てくるわけだ。

 目的もなく、必要もなく行動することこそ、人生の彩りではないか、と自問もしてみる。同窓会は来年の3月らしい。まだ時間がある。出かけるのもよし、出かけぬのもよし。いずれの結論も良し悪しがないという状況は、迷い考えるには妙に心地がよいのはなぜだろう。こんなことなら、迷ってみたいというしろものだ。


 良悪がつきまとう選択の時は緊張感が伴うが、この迷いは淡いノスタルジーを喚起し続け、秋の季節にとてもよく似合っている。