kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<31> 麗しきタイの人々、活気天衝く街

 昨年の暮れ、学会でタイに出かけた。日本の旅行者には、人気1,2の彼の地である。学会はいつも通りの雰囲気でつづがなく終わり、相変わらず有意義な機会となった。しかしそれ以上に魅せられたのは、タイの人々の生活ぶりと人となりである。

 タイの首都バンコクの街は活気に満ちていた。街角で物乞いをする人も多く、都心の真ん中で露天商が所狭しと並んでいる。車に負けじと、縫うように走るバイクの群れ、また群れ。見ていてハラハラするものの、いつの間にか心地よい高揚感に包まれてしまう。貧しい暮らしぶりはよくわかるが、それがどうした、という勢いがある。

 驚くべき体験もした。滞在中の夜、道に迷い、気がつくと線路上を歩いていた。これはいけないと思い、横に飛びのくと線路に沿ってバラックやシート張りの家が連なっており、知らず知らずに家の中を歩いていた。なんと、他人の家の中を歩いていたのだ。これは無礼極まりない振る舞いだととまどっていると、住人が手招きし、こちらから出て行きなさいと、優しく出口のシートを上げてくれた。助かった。怒鳴られ、殴られても、しかたがない状況であったのだ。

 しかし、これらはいずれも、日本が疾うに忘れてしまった生きる力だ、伸びようとする力の風景なのだ。これからこの国は大いに伸びていくのだろう。天を衝くほどの勢いで。

 そう思い、日本という国に悲しみを感じたのはなぜだろう。この尊いほどの熱気をもはや失った日本に未来はあるのだろうか。確かに今は、日本の方がタイより裕福な国だ。しかし、その関係もほどなく逆転するだろう。そして、タイも繁栄の頂点を極め、日本のような衰退の道をやがて歩むことになるのだろうろうか。歴史は巡るのであろうか。さまざまな思いが浮かんでは、また消えゆく。

 それにしても、タイの人々は慈愛に満ちている。郊外のバス停で乗るバスに迷っていると、さりげなく声をかけてくれた老人がいた。先導して一緒にバスに乗り込み、車掌に降りる場所が来たら知らせてやってくれて世話までやいてくれた。どう感謝をつたえれば良いかと迷っていると、こちらの方も見向きもせず、早めの停留所で降り去った。当たり前のことを、当たり前のようにやったという老人の日常に、琴線が触れた。

 さらに、さらに、タイ語の美しい響きが、今も耳に残っている。女性なら、「コップン、カー」(ありがとう)、「サワディ、カー」(こんにちわ)と美しく語尾を上げ話しかける。優しい、実に優しい。タイ特有の踊りはどうだ。その音楽はどうだ。激しい身振り一つもなく、激しいリズムの一つもない。微笑みの国の名に恥じない笑顔もいい。その優雅な雰囲気が、見るものをノスタルジックな思いに包む。もう一度タイに行きたいものだ、と必ず思わせる決め手である。

 日本から飛行機で6時間弱。時差わずか2時間。赤道に近いとは言え、さほどの暑さでもない国、タイ。異国に行き日本を想うことが多々あったが、これほどに悲しい思いをしたことはかつてなかった。これほどに、麗しい光景に心を打たれたことはなかった。

 タイに、学びたい。

<30> 世にも不思議な、それは不思議な研究会

 昨年から新しい研究会を定期的に開催している。その名も「研究推進研究会(RP研究会)」という。

 これがまた風変わりな研究会で、参加者の研究を徹底的に推進することを目指している。参加者みんなで協力して、メンバー各自の研究の芽を育て上げる。共同研究をしているわけでもない。気まま勝手な個人の研究で、その実現の手助けをするという運営ぶりだ。

 参加者の目的はさまざま。学会誌に採択されること、科学研究費に採択されること、博士学位を取得すること、参加者それぞれの目標がある。どれも現実的な目標で、決して絵に描いた餅ではない。

 毎回研究会では、「研究ナラティブ」と称して各自の研究を、計画やら結果やら考察やらを存分に物語る。それをメンバーが講評し、なんとか発表者の目標へと結実させようとする。アイデアが飛び交い、きつい批評も出る。しかし、酷評して研究案をつぶす研究会とはわけが違い、目指すは目標の実現のみ。つまり、責任をもった、究極のサポート体制を敷いている。

 参加者は心理学が専門の研究者や博士課程の学生が中心だが、研究対象は乳幼児から成人までいろいろで、教育、保育、医学の多様な領域からメンバーが集まっている。遠くは京都や香川からも参加者を得て、毎回ガヤガヤと賑やかにやっている。おっと、開催地は徳島県鳴門である。

 今回の研究会は、全員参加の都合上日曜日の開催となった。参加者がわがまま放題、自己主張満載で開催日を決めるから、全員参加可能な日の選択が必須になる。つまり、誰もが欠席などしたくはない、貴重な研究会である。しかし、たとえ日曜日であっても、祝日であっても、他人の研究ナラティブを聞くのはほんとに楽しい。どれもワクワクするような研究で心が躍る。

 参加者には、研究上の夢を実現してもらいたいな。心底そう思う。心意気のある、心優しいメンバーの面々を前に、いつもそう感じながら、極上の時間が研究会では過ぎる。

 こんな研究会です。参加希望者は、どうぞいらしてください。

<29> 秋に想う。同窓会に行くもよし、行かぬもよし、それぞれの人生。

 紅葉の季節を迎え、秋たけなわである。なぜか、この季節になると、同窓会の案内がよく届く。冬の到来の前の、この寂しげな季節が、ノスタルジーへと誘うのであろうか。

 その案内は、中学校、高校、大学と多くの校種にまたがっている。さすがに小学校はないが。同窓会への参加を待ち焦がれる人には、会を企画してくれる幹事の方は実にありがたいことだろう。敬意を払うべき仕事ぶりだと言える。 

 しかし出不精の私は、どれにも参加したことがないのである。案内のハガキを見るたびに、それぞれの学生時代を思い出し、懐かしい気分に包まれるのだが、実際に参加するという行動に出たためしはない。

 なぜ参加しないのか。その理由の1つは、目的なく、必要もなく、過去を振り返える暇がないことだと見ている。個人的には、好んで、久しく合わない知人には会ってきた。それは、会う目的があり、会う必要があったからだ。実際に会ってみて、例外なく良かったし、今後も何度も会って見たいとも思っている。これは、作為した同窓の集団の形成ゆえに、好んで入ろうとは思わない状況とは対比されよう。 

 そう言わずに、昔を懐かしむ気持ちひとつで参加したら、という別の声もどこからか聞こえてくるが、やはりそうはならない。

 このことと関連して思い出すことがある。ちょっと前に母校の大学で講演に呼ばれ、話をしたことがあった。その母校ですら20年ぶりというご無沙汰状態であった。それも、出かける目的と必要がなかったからである。
 しかし、行ってみて、恩師に会い、旧知の先輩や後輩に会って話しをすると、実に楽しいのある。心がほかほかするというか、生きてきた実感がわくというか、とにかく良いのである。そこに理屈はない。その出合いを包み込むように存在する母校もまたありがたい。啄木の、ふるさとの山はありがたきかな、とは正にこのことだ。

 そう思い出し、昨日届いた中学校の同窓会のハガキを見直した。差し出し人の顔が浮かばず、思いを巡らしていたら、たぶんあの子だという人物にたどり着き、しみじみと当時の生活が思い出され始めた。あの頃は、やんちゃな毎日、刺激わんさかの毎日であった。ちょっとバンカラの生活で、結構透き通った心をもって毎日を過ごしていた、と思う。今になれば、思い出すのは、珠玉の美しい出来事ばかりだ。
 かつて住んでいた彼の地から海を隔てた遠方に住んでいるこの身には、なおさら懐かしい。ちょっと出かけてみようかな、という気持ちも出てくるわけだ。

 目的もなく、必要もなく行動することこそ、人生の彩りではないか、と自問もしてみる。同窓会は来年の3月らしい。まだ時間がある。出かけるのもよし、出かけぬのもよし。いずれの結論も良し悪しがないという状況は、迷い考えるには妙に心地がよいのはなぜだろう。こんなことなら、迷ってみたいというしろものだ。


 良悪がつきまとう選択の時は緊張感が伴うが、この迷いは淡いノスタルジーを喚起し続け、秋の季節にとてもよく似合っている。

<28> 学会シンポジウム、ドタバタ旅日記

 例年、9月から10月にかけては、日本心理学会と日本教育心理学会でシンポジウムを企画し実施している。私自身が話題提供者になることも多い。今年は、両方で企画と話題提供を行った。しかも、日本心理学会と日本教育心理学会は、一日の間も置かず連続の開催であった。
 それも、日本心理学会は大阪、日本教育心理学会は東京という遠距離、時間差なし開催である。ちょっと、きつかったかな。一度に済んで楽ちんという声もあるが。

 私の研究室は、基礎と応用の両輪を走らせているので、日本心理学会は基礎系、日本教育心理学会は応用系と、シンポの内容をくっきりと区別している。今年の基礎系テーマは、パーソナリティ研究の根幹にかかわる内容、応用系は、もちろん、私たちが全国展開を目指している予防教育に関するものだ。
 予想どおり、日本心理学会は階段教室にほぼ満席の盛況であった。日本教育心理学会はそれほどでもなかったがまずまずの入り。多くの方に興味をもってもらえてよかった。

 シンポの内容は別の機会に譲るとして、とにかく大阪は暑かった。じっとしていても汗が出るほどの暑さ。うって変わって東京は涼しかった。たまたまであろうが、同じ日本でも随分気候が異なる。

 学会ではひさしぶりに旧知に出会う。近況を語りあうのも、また楽し。シンポの夜は、決まって懇親会を開く。この懇親会は飛び抜けて楽しい。今年も、笑いが絶えなかった。大阪では、大阪外からの参加者がやけにわが徳島のことをよく知っていて、私などはもぐり扱いされ、冷や汗をかいた。なにせ、今や全国区になった大塚美術館にも行ったことがないのである。昨年暮れの紅白で米津玄師さんが熱唱し、ファンには聖地と化した美術館らしい。

 東京では、参加者のほぼ全員が西日本在住で、身近かなご当地の話題で盛り上がった。滋賀は関西とは考えていないと私は言い張り、異論噴出、炎の討論会となった。しかし、あの琵琶湖という茫洋たる湖を抱える滋賀は、我々にとっては異端なのである。フナ寿司がおいしいと言う、滋賀県人も理解不能だ。ただ、ひこにゃんはかわいいから、許されよう。何を隠そう私は大阪出身で(これも異論があるが)、幼少のみぎりより琵琶湖の水をちょうだいして育った身の上では、いじけた話ぶりになるのもやむを得まい。

 こんなばかばかしい会話の中にも、ピリっとした学問上の話も加わる。名誉のために、文脈もなく付言しておく。

 さてさて、来年はどのような学会風景が待ち受けているのであろうか。しかし、来年のことはまだまだ考えられない。今年はこの後、これまた恒例の海外の学会発表が続く。学会参加は研究者にとってはアクセントのようなもの、かな。貴重なひとときであることには間違いない。

<27> アジア歴訪 ― 躍動感あふれる台湾

 このブログでは、アメリカやヨーロッパでの体験はよく紹介してきた。と、振り返ってみると、アジアでの体験はほぼ紹介していないことに気づいた。というのも、西欧諸国行きと比べて訪問頻度がそれほど高くないことによる。
 しかし、最近は毎年のようにアジア圏の国を訪れている。といっても、例のごとく、学会参加や仕事上での訪問ではあるが。

 数年前に最初に訪れたのは台湾である。これは、台北市の大学との協定を結ぶ仕事に、講演の仕事も重なった。これまで、アメリカやヨーロッパによく出かけていた身には、時差もほぼなく、ほんの数時間での到着ということで頗る快適な行き帰りの飛行機便であった。
 台湾の空港に降り立ったときは、ここが異国かと疑うほどの近場で、人々の髪の毛も日本人と違わない。到着するそばから親近感満載である。

 街は活気があり、特に若者のエネルギッシュな様子が印象に残っている。1世代前の日本の状況がこれに似た状況かもしれない。日本が統治していた頃の印象が良かったのか、誰もがたいへん親切にしてくれた。片言の日本語を話せる人も多い。本当に親切で、どう返礼してよいか戸惑ったほどだ。
 近代的なビルが立ち並ぶなかでも、古びた商店街が街の隅々に散らばっていた。むしろ、そのような古びた街並みに、台湾らしい、暖かみのある風情を見ることができ、癒された。
 それにしてもバイクの数が多い。車の間を縫うように器用に走りぬく人々に、危ないな、と感じる前に、あふれんばかりの活力にあっけにとられた。時折走る新幹線がスマートな印象を付加していた。新しいもの、古いもの、活力、親切・・・、さまざまなものが混在し、どれもが好印象を抱かせる。 

 講演は大学のキャンパス内で行われた。英語でOKということで、私たちが進める予防教育について一時間半ほど話させてもらった。熱い、熱い。気温が高いということではない。聴衆が熱いのである。しっかり聴き、しっかり質問してくれた。さすが、新しいものを吸収しようという気概が違う。すぐにこちらの予防教育が台湾で広がるということはないであろうが、吸収するぞ、という気迫に満ちていた。 

 滞在中にちょっとした地震もあった。なぜか、そこにも日本と同じと親近感を感じた。台湾と言えば、最近の香港事情が重なる。日本にはない複雑な中国との関係が住む人を不安にさせている。中国、香港、台湾の悲しく、厳しい歴史は、日本人の同情をはねつけるように重い。自由と幸福とが、この国にいつまでも続くことを、ただ祈るばかりである。

 その後訪れたのはシンガポールだ。ここはまたがらりと変わった印象で、日本など足下にも及ばない発展ぶりに度肝を抜かれた。また話したいな。

<26> 教師としてのしあわせ ― 32年ぶりの奇跡の再会

  ある大学の先生から聞いた話である。どうしても伝えたいので、私の勝手な想像を細部に加え、物語りを紡いでみたい・・・。

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 少し前のことだ。私は東京行きの機上にいた。もう数時間もすれば、なんと、32年ぶりに、以前勤めていた大学の教え子に会う。
 
 1年半ほど前に、分厚い封筒が大学に届いた。中には手紙があり、16枚もの便箋にびっしりと手書きの文字がしたためられていた。美しい字が1点の訂正もなく紙面を埋めていた。
 差し出し人は、30年ほど前に勤めていた大学の教え子であった。そう紹介されていたので間違いない。このような手書きの長文の手紙は珍しく、どのような手紙だろうと興味をもって読み始めた。

 手紙をくれたきっかけは、私の書籍を書店で見かけて読んだくれたことだったらしい。30年と一言でいうが、その歳月が人の生活にもたらす彩りは悲喜こもごもであり、容易には語り尽くせない重みがある。そこには、この学生が卒業後の経緯がしたためられていた。幸せな結婚をし、平穏な生活を過ごしていたようだ。子どもはいないものの、駅近くで自営の書店を営み、通勤客や子どもたち相手に毎日忙しくしているということだった。2畳ほどの小さな書店らしいが、街の人たちから愛されていることを想像させる書きぶりであった。

 さらに、当時の大学での生活、友達との交流、それに、私の授業時の振る舞いへの印象等が懐かしそうに綴られていた。最後に、「先生、私にも幸せの青い鳥が舞い降りました」と書かれていた。そのフレーズは、私の書籍の最後に書かれた言葉そのものであった。

 これほどの濃い内容を1点の間違いもなく書きしたためた手紙は、私の心の深いところに響き、さっそくお礼の手紙を送った。その後、彼女は私のネットでの発信を読むようになってくれたようで、たまにメールもやりとりするようになった。
 
 学生は東京の文京区に住んでいるらしい。東京にはよく行くので、ぜひ会ってみたい。そうメールで伝えると、学生は喜んで応じてくれた。

 東京駅前のホテルのロビーで会うことになった。近くで会議をしていたので、時間を無駄にしてたくはなくてそこを選んだ。会議が思いのほか早く終わったので、場所と時間を変えようかと学生に電話をしてみた。すると、待ち合わせの時間にまだ1時間もあるというのに、すでにホテルのロビーにいるという。

 驚いて行ってみると、ロビーの隅に落ち着かないそぶりで立っている人がいた。祝日なのでホテルには大勢の人がいたが、私はひと目でその学生だとわかった。32年間一度も会わず、写真を見たわけでもないのに、まがうことなく学生だと確信した。学生もひと目で私だとわかったようで、二人は一瞬目と目を合わせたまま立ちつくしたが、すぐに小走りでかけより挨拶を交わした。その瞬間32年間の時間の溝は埋まり、つい昨日まで会っていたかのように打ち解けた雰囲気が二人を包んだ。実に不思議な瞬間だ。

 それから、お茶を飲みながら、学生時代の話やら、その後の学生の結婚、書店の切り盛り、ご主人のこと、ご両親のことを時を忘れて話してくれた。カウンセリングの仕事で人と話すことは慣れているが、これほど心おきなく安らかに人と語れるのは初めてのことかもしれない。
 それほどに、この学生の豊かな心情と人を思いやる心根のやさしい人格は私をなごませてくれた。
 あっという間に2時間ほどがたち、私たちは東京駅まで楽しげな会話を続けながら歩いた。そこから、学生はメトロに、私は山の手線へと別れた。途中何度か学生の方を見返したが、そのたびに学生は私の方を見て手を振ってくれた。
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 なんと美しい話だろう。恩師と学生の結びつきとはかくあるべし、という夢物語りである。我が身を振り返り、このような学生のひとりでもいてくれるだろうか。きっといる。この先生のような劇的な出会いがなくても、どこかできっと私の活動をそっと見守ってくれている学生がいる。

 もしそのような学生に出会えたら、私はどうするだろう。願わくば、全力でその学生の幸いを守れる恩師であり続けたい。教師は、ひとりの学生の一生に責任をもつほどの覚悟で教育を授け続ける必要がある。教師の生きざまとは、そうしたものだ。
 そのことを思い出させてくれた、この学生と先生に、心からの感謝を捧げたい。私にとっても、まさに奇跡の再会となった。

<25> 私たちは、無意識の力に牛耳られている!

 神経生理学者のリベットは、我々には自由意志がないことを見事に証明した。その研究は実に衝撃的であった。

 簡単に彼の実験を紹介しておこう。参加者には、好きなときに手首を曲げてほしいと伝える。その際、手首の動き知るための筋電図と脳からの指令の開始を知る準備電位を測定する。そして参加者には、眼前の秒針のようなスケールを見て、その針がどこの時点にあるときに「曲げようと思ったか」を報告してもらった。

 結果はまさに驚天動地。曲げようとする意志が働く以前に、脳から曲げる指令が出ていたのだ。つまり、人間は考える前に決定し、行動しているという事実を私たちの前に晒したのである。もちろん、細部の条件を見ると、事実は複雑にからまるのであるが、そのあたりは私の専門にかかわるので説明はご容赦いただきたい。このブログでは、自らの専門性は極力出さないことをルールにしているからには(汗)。

 しかし、その後の追試結果の良好さを見ても、およそは自由意志がないと言い切ってよい。この事実は私たちの日常の感覚とは大きくずれる。ああ、人間の高邁な生きざまが否定されていくのか。真実とは、ややもすると、このように真っ向から常識に刃向かうものである。地動説が出たときのことを想えば、そのことがよくわかる。地面が動いている感覚は日常とはあまりにも乖離する。
 自由意志がないという事実はまだ一般には伝わっていない。いっそのこと、お蔵入りさせるべきかと思われるほど、衝撃の事実なのだ。

 近年の脳科学や心理学は、思考も行動も含めて、私たちの営みの9割は無意識によって決定されているという。では、たとえ1割とはいえ、意識は何をしているのか。わかり切った質問のようで、これに答えることはきわめて難しい。対面している相手に意識があることさえ、本人が証明するのは至難のわざだという現実をご存知だろうか。

 結論だけ言っておくと、意識は実に頼りない。無意識の手下のような存在である。無意識の動きに左右され、自分自身を騙すがごとく振る舞っているばかり。情けないことこの上ない存在だ。

 さて、こう考えてくると、「人間とは何だろう」という問いに、やはり行き着いてしまう。多くの科学者は、科学の謎に迫れば迫るほど神の存在を信じざるを得ないという。所詮人間は、我々に与えられた感覚機能や脳機能を越えて推論を展開することはゆるされない、という絶望にもぶち当たる。

 ひょっとして、眼前には異次元が広がっていて、現世とは異質な世界に囲まれているのかもしれない。そこでは、何かが存在するとか、何かの自然法則があるとか、そんなこととは無縁の、想像を絶する世界が支配しているのかもしれない。潜在的な広がりのヴァリエーションの無尽を思うと、この宇宙に現存するカテゴリーは砂浜の砂粒1つほどの重みもないだろう。

 宇宙は有限であるという。際限なく膨張しているようだが、その終焉も予測されている。この世に宇宙という実体しかないわけがない。その外には何があるのだろうか。実体? 外? そのような儚い概念で何かをとらえようとしている人間にはやはり限界を感じてしまう。しかし、それが人間に与えられた力のすべてだと諦観すべきか。
 いやいや、ここはひとつ、その限界を乗り越えてみようではないか。

<24> 教育は、天才を手放しで愛でてはいけない

 歴史上、天才の誉の高い人物は数多い。その人たちは成し遂げた業績で評価され、偉業としてたたえられる。しかし、人格的には決して賞賛される健全さを持ち合わせていないことが少なくない。
 類いまれなる創造物を生み出す天才は、多くのものを犠牲にしてきたようだ。ここで、学校教育は天才の偉業を賞賛するばかりではいけない絶対使命を持つことを語らねばなるまい。

 この流れで、私はよくモーツァルトを例に出す。ウィーンに行けば、モーツァルトの足跡がいかに偉大であったかがよくわかる。日本ではウィーンは海外旅行先ではNo.1の人気を誇るらしいが、その理由は容易に察せられる。ウィーンは、ゴージャスな文化の歴史が香り立つ、気品ある都市だ。しかし、その香りがモーツァルトの人となりにそぐうのだろうか。その作品は多くの人を現在もなお魅了するようだが、彼の人格は決して健全なものではなかった。品行も悪く、浪費癖も甚だしく、幸せな家庭性格とは無縁の生活を送くり、悲劇とも言える短い生涯を閉じる結末に至った。

 彼の天才性は遺伝のみならず、早期の英才教育で培われたと言われる。されば、早期の教育を否定すれば、この天才の芽を摘むことになったのか。私はあくまでも早期の教育を否定する。早期教育は、いかに綺麗ごとを纏っても、健全な人格と真の能力の育みに大いに反することになるからだ。
 早期教育の脱落が天才の芽を摘むとも思えないが、百歩譲って、そうだとしよう。されどなお私は、摘まれれば良い、と明言するだろう。教育とは一つの個性を伸ばすことよりも、全人格的な人物を育て上げることに一大使命があるからだ。天才的な個性は、突き出るようにほとばしる個性であり、全人格的な健全さの上にそそり立つものでなくてはならない。

 私個人でいえば、天才のいかに素晴らしい業績を前にしても、その背景に全人格的な健全さがなければなんの感動もないのである。この信念は実に正確に、私の教育指導の航路を正していく。私にとっては、全人格的に健全な人の育成が何にも増して重大事だ。なぜなら、それが人ひとりの幸いを保証する。幸いなる人生の創造は、教育の最大使命である。教育とは、かくも凜々しく、美しく、尊い営みと心得よ。

 ノーベル文学賞に輝いたヘミングウェイの作品に心うたれる人は多いだろう。しかし、彼の人格は能力以上の要求水準の高さにむしばまれ、最後は猟銃で頭を打ち抜き自殺へと至った悲劇を忘れることはできない。「老人と海」は彼の自画像とも言える意味深い作品だ。村上春樹ヘミングウェイを好まないとみるが、そのことはよく理解できる。文体から人が見えるのだろう。

 アインシュタインはどうだろう。ニュートン物理学を数百年ぶりに塗り替えた彼の業績の偉大さを疑うものは誰もいない。しかし、チューリッヒ工科大学の校舎前で彼が失意のうちに見たチューリッヒの町並みは悲しげだ。時間をわすれその場に佇んだ私の想いは馳せる。その生き様はそれでよかったのかと。
 大学に職を得ず追われたのは、当時の教授たちの授業に一切の興味をもたず、ひたすら自分の興味を追っていたことによる。これは美談のように語られ、それだからこそ偉業をなし遂げたと誰もが言う。しかしその天才性は、人の悲哀に共感し、人を傷つけずに慮る人格とは同居できなかったのであろうか。家庭生活の不幸もそのことに通じていよう。

 学校教育は、天才の出現を期待する。しかし、それは全人格の健全さの上に突き破るように出る天才であるべきことは、決してゆずれない信念となる。

<23> 逆転の発想! 英語習得力の低い者こそ、本当の英語教育を語れる!!

 仕事がら英語は道具として使っている。別に得意ではないが、道具としては機能しているから、それでよし。日本では、この英語の学習が重視されている。ご存知のように、小学校では英語は教科となる。

 この点、英語を母国語とする人たちはのんきである。アメリカでは英語以外の言葉を学ぶ人は20%しかいない。その必要がないのだ。移民が多いアメリカでは第3世代ともなれば母国語を話せない。これまた、その必要がないのだ。母国語として世界でもっとも話す人が多いのは中国語である。次がスペイン語。だが、英語ほど広範囲で使われている言語は他にない。話せる人の多さなら断然世界一であろう。

 さて、英語をどう習得するか。日本では実に多様に英語を学ぶ商いがはびこっている。また、様々な学習方法も提起されている。しかし、どれも決め手がなく、救世主となれるほどの学習方法はいまだ皆無である。
 なぜか。おそらくそれは、その学習方法を生み出す人たちがもともと英語習得能力が高い人たちばかりだからだろう。つまり、英語習得力の高い特別の人たちに適した方法となる。喉から手が出るほど、スーパー・メソッドを待ち望んでいるのは、英語習得力平凡人の我々だ。
 英語の力がまったくなくて、悪銭苦闘した挙げ句英語をものにした人が、学習方法を編み出したらすごいことになるだろう。それはそれは、効果覿面の方法となろう。残念ながらそれはまだない。英語を悪銭苦闘してものにした人は、そんなことは恥ずかしくてできないのかな、と拝察する。

 私もその類である。泥臭い英語勉強法をやってきた。英会話テープはテープが伸びきるまで聞き倒し、女性陣に混じって英会話学校も通い詰めた。ラジオ講座もまじめに聞き続けた。しかしどれも、これが一番という方法はなかった。言っておくが、アメリカで数ヶ月ぐらい語学学校に通っても無駄だ。学位をとるほどの過酷な環境で何年も過ごすのなら別だけど。

 しかし思うが、英語を習得する必要性はいつまで続くのだろう。通信も5Gになると、格段と通信速度と容量が増え、機械による同時通訳もラグがなくなるという。機械が聞き、しゃべってくれる、かつての未来ものがたりが現実になる日も近い。そのころには、コミュニケーションとしての英語学習の意味な何になるだろう。英文学や英語学としての意味は続くのだろうが。
 
 世界を渡り歩いていると、実に多くの英語があると実感する。英語はコミュニケーションとして使えればそれでよい。どうしても必要な状況に陥れば、英語ぐらい誰でもものにできる。なんといっても日本人は日本語を見事に操っているのだから。村上春樹は語学の天才らしい。学校の英語の成績は今いちだったようだが、高校時代から英語の原著小説を読んでいた。好きこそものの上手なれ、ということだ。私も読んでいたが、1ページ読むのに数十回も辞書を引くようなみじめな読み方かしかできなかった。

 英語学習とは何だろう、どうあるべきだろう。何年も学校で英語を学んでもものにならない日本人が、無駄な教育を小学校にまで広げようとしている、と叫ぶ向きは多い。こういう意見を耳にするたび、いろいろと考えさせられる。いまだにビジネス英会話をラジオで聞いている私は、つくづくやるせない。もう20年ほど聞き続けているのだから。

<22> アメリカ合衆国、道場破り滞在記

 思い返せば、10年ごとに研究環境をがらりと変えてきた。その変貌はそのときどきで違うが、とにかく10年以上の単調な繰り返しを厭う体質のようだ。

 あるときは、研究の対象を乳幼児から児童青年に変え、またあるときは、日本という研究環境を変え、アメリカに1年の居を構えた。中でも大きな変化であったアメリカの滞在について、今回は書かねばなるまい。それは、私の研究基盤を塗り替えるほどの経験であった。

 日本からアメリカに行くとあらば、何かを学びに行くというのがお決まりのコースであろう。しかし、私の場合はそうではない。道場破りまがいの滞在を望み、計画した。道場破りと言えば聞こえは悪いが、きわめて紳士的な行為ではあった。つまり、私がそれまでに日本で開発した、子どもの健康と適応を守る教育プログラムをひっさげての渡米である。具体的に言えば、暴力予防とうつ病予防プログラムのご披露である。この手のプログラムでは本場と言えるアメリカの地で、あちらの研究者や教育者を向こうに回し、日本発のオリジナルプログラムが本場で通用するかどうかを、実地で確かめてみようという、大それた挑戦であった。

 具体的な道場を決めて出かけたわけではない。およその目星は日本でつけたが、実際は渡米後、アメリカの各地を縦横無尽に巡る飛び込みである。「たのもう!」の一声に答えてくれた大学や研究所は数多く、おかけで首尾良く目的を達成できた。さすがに、異質なものを飲み込むアメリカ人気質のありがたさであった。心からの感謝を捧げたい。
 
 勝敗の行方は、痛み分けであった。こちらのプログラムの方が遙かに良いところもあれば、あちらの方が俄然良いところもあった。あちらがうなれば、こちらもうなる。その結果、自然と双方が良さを吸収することになり、こちらのプログラムも急成長した。

 その成長の証が、帰国後に予算と人力を存分に注いで完成に至った、新生の予防教育プログラムであった。それが今、全国普及の途に就いている。歩みは決して速くはないが、着実に浸透している。また、浸透しながら発展を重ねている。その進展は、現在第3世代へと進化を遂げているのだ。

 ミシガン州の大学に拠点を置きながら、ニューヨーク、コロラドオハイオ、カリフォルニアと各地を回った。まるでドサ回りのような生活であった。ほんの数人の聴衆から、百名ほどの聴衆までいろいろであったが、とにかくがむしゃらに発信してきた。

 しかし、今思えば、それほどしんどい旅ではなかったな。マイルハイシティのデンバーで橋の欄干から時を忘れてみたロッキーの透き通るような山並み、近代都市シカゴから見たミシガン湖の海のように波打つ湖面、ニューヨークの9/10のテロ跡に見た世界の混迷 ― いずれも、ストレスに満ちた道場破りの活動に深い彩りをもたせてくれた第一級の思い出だ。また、ストイックな生活を貫いたことも忘れられない。なにせ、単身渡米の身では病気一つできないのだ。原則朝昼晩は自炊、夕刻の運動は欠かさず、生活習慣満点の生き方はあのときに培われたようだ。 まさに環境は人を育てる。

 しかし、さすが心理学の本場である。その懐の深いアメリカ合衆国研究史と研究者魂は、私に多くのことを教えてくれた。今の歩みの一歩、一歩は、その教えに支えられた歩みに違いない。そのことを忘れずにいる自分だからこそ、今もなお第一線に立っている。ふと感じる、ささやかな矜恃である。

<21> 隠れ児童文学作家の知られざる正体

 何を隠そう、私は児童文学作家でもある。といっても、プロではない。アマチュアである。つまり、これで禄を得ているわけではない。

 祝日など日がな一日、ポカリと空いた時間を使い、コツコツとワープロを打ち、物語りを奏でる。これまで、長編、短編選ばず書いてきた。「砕けよ、地球! ルビアン星の野望」、「盗まれた学校」、「頭の中の、もうひとりのきみ」、「おさるがとんだ世界一の宙返り」・・、まだまだあるぞ。

 たまによい出来のものができると、作品コンペにも応募する。〇〇賞をとって商業出版され、多くの人に読んでもらいたいではないか。しかし、ことごとく夢破れ、応募するはしから落選、落選の連続。自尊心がこてんぱに破壊され、我が作家才能の低さを思い知らされる。とはいえ、書くのは止めぬ。好きなのである。心底書くことが好きなのである。

 プロの作家は、例外なく幼きころから多読家であったらしい。私も小学校ぐらいまでは負けじと多読を誇り、学校の図書館の本を読み漁った。貧しい家では、たまに買ってもらえる童話を何度も何度も読み込んだ。図書館の湿り気のある部屋の一角で、書物の乾いたページをめくり読み進める快楽は何にも替えられない。この点では、私はエピキュリアンであろう。

 それが中学時代になると俄然スポーツに目覚めた。なまじっかスポーツ万能であったせいか、本を読む時間と興味をスポーツが覆った。読書習慣が復活するにはその後6年ほどを要し、大学に入るころとなる。正直、この空白の6年には焦った。もはや無駄な読み方はできぬと、読書論をむさぼり読み、計画的に古典を読み続けた。しかし、その6年のハンディはいかんともしがたく、プロになる作家力の回復は見込めなかったようだ。しかし、その後の読書三昧は今のこのときまで続いている。寝る前の読書は格別で、秘密のノートをつけながら読み続けているのだ。

 こんな私がその生き様に共鳴する作家の一人に浅田次郎氏がいる。彼も図書館でむさぼるように読書をした口だ。若くして、作家になりたい、いや、なると決めていたから、その覚悟がすごい。しかし、書きしたためる作品をかたっぱしから懸賞応募するも、ことごとく落選。それでも、書く。自衛隊に入ろうが、営業をしようが、競馬に打ち込もうが、とにかく書く。いまだに、赤の罫線で名入りのオリジナル原稿用紙に万年筆を握りしたためるスタイルは、「書く」という言葉が実によく似合う。
 ようやく原稿が活字になったのは30歳半ば、単行本になったのは40歳直前という遅咲きであった。しかしその後の活躍は、世間でよく知られていよう。ベストセラーを連発し、直木賞もぶんどり、破竹の勢いで進軍している。1冊の良書は素人にも書ける。しかし、それが連発されるとなると、本当のプロだけが持つ才による。

 この作家が書いたものには月に一度は出会うさだめ。東京行きのJAL機内誌「スカイワード」の連載エッセイ「つばさよつばさ」は欠かさず読むことになる。まさか、それを読むために搭乗しているのはないのだが。

 この作家は遊び心がある。生き様それ自体が遊び人である。競馬というバクチで世界中を飛び回っているらしい。しかし、身をほろぼすほどのバクチ通ではなく、集計すると生涯収支わずかにプラスというからすごい。嵩じて馬主にもなっている。いかに持病の狭心症の発作に怯えようと、肉汁したたるステーキはむさぼり食う奔放さもある。

 それに引きかえ、私の作品は世に出ないな。彼と違ってまったく遊んでいないのに不思議なものだ。おっと、専門の仕事では何冊も単行本を出しているのでお忘れなく。悔しいので、その鬱憤をブログに打ち込んでいるようなものだ。まじめくさった文章をここに書くつもりは毛頭ない。多くの人が読んで、ほのぼの、幸せな気持ちになれる内容を書くことに最近は心がけている。その反動は、私の専門書に出るからご安心めされ。
 
 かくして私も、七色仮面ならぬ、七色執筆者となり、ひた走るのである。

<20> ズッコケ、青春蟹まみれ旅行

 今年は希有な10連休。とは言え、大学での研究や教育上の仕事がある。いずれも自ら率先してやりたいことなので、仕事と呼ぶのは憚られる。趣味とか、生きがいとかいう代物だ。仕事が楽しいものとなれば格別の味わいがあり、それに没頭できることは精神と身体に頗る好ましい影響をもたらす。

 サクサクと趣味ははかどったが、連休半ばでその趣味にも倦じて、旅の空が見たくなった。それに、世間の弛緩しきった休日ムードが脅迫的に旅情へ誘う。まさかこの状況で宿泊付き旅行はないので、日帰り旅行と決め込んだ。行き先は、私の中では言わずと知れた金刀比羅宮である。麓の琴平駅に別用で立つこと幾度、未だに本宮に出向いていないという不可解千万のかの地である。

 徳島から一人高速バスに乗り高松駅で降車した。続いて、高松築港駅から琴平電鉄に急ぎ乗り、目的地を目指す。計画は完璧だ。しかし、琴平電鉄はいい。このレトロな雰囲気、田園風景の中を走るのどかな趣。「一人旅はいいな。うん、やはり旅は人生の洗濯だ」としみじみ思う。しかし、ゴトゴトと上下の揺れが激しい電車だ。よく揺れるなあ、と思ったとたん、思考は遙か数十年前の学生時代の旅中に飛んだ。

 大阪発夜行急行列車「北国」の車中だ。目指すは北海道だった。一年に一度は、リュックサックにテントを担いだ気まぐれ旅に出ることが学生時代の常であった。当時蟹族という言葉がはやった。横長のリュックを背負い、列車の通路を進むには蟹のように横歩きを余儀なくされたことによる。その蟹族の滑稽な姿をもっとも長くさらしたのは、なんと言っても北海道旅行である。大阪から夜行急行列車で青森を目指す。貧乏旅行には最高の贅沢だが、旅程の効率化からこれしかなかった。自由席で座席を3つ確保できれば、くの字になって眠ることができる。必然の経験からの裏技である。

 大きくきしむ車内では熟睡できるはずもなく、覚醒と眠りの中間状態で青森駅に降り立つ。当時はまだ青函連絡船が走っていた。ふ~む。夜行列車から連絡線か。これ以上の旅情の深まりはないな。列車の到着に合わせて船が出るので、休む暇なく乗り込み函館を目指す。船の汽笛はなおさら旅情を誘う。「は~るばる来たぜ函館~♪」サブちゃんの演歌が軽快に脳裏に響く。
 函館に着けば待ち時間なく札幌行きの列車だ。車窓からみた北海道の景色は忘れられない。とにかく土と家が違った。黒土の上に鋭角のスレート屋根が生えるように建てられている。夏の風景を見ながら、すっかり雪に覆われる冬を十分に想像できる。

 そこから、北の大地を巡る、めくるめく旅が広がった。その思い出が広角に広がり、どれに焦点を当てようかと途方にくれる。そこで選りすぐりの行き先として、網走が登場する。列車で北キツネと並走した網走までの光景もいいが、網走と言えばやはりあそこだ。網走刑務所ではないぞ。網走の駅のプラットフォームで夜を明かしたときのことである。真夏といえ、北海道の夜は底冷えする。とくに足先が冷たい。持参の靴下を4枚重ね着をしても冷たさで何度も目をさます。疲れからようやく深い眠りについたのは夜明け前であった。そのとき、突然耳をつんざくような鋭利なガキーン!という金属音が近くで響いた。何事かと驚いて飛び起きた。まだ夜明け前だぞ。何が起こったのか?! 見ると、昨夜はなかった車両が寝床の横に鎮座している。あたりを見ると、次々に車両が連結されていく。ガキーン、ガキーン! 判明! 耳元で車両の連結器が接合され、けたたましい音が響いたのだ。やれやれ肝を冷やしたぜ、と苦笑いで思い出していると、一気に山陰の海岸に記憶が飛んだ。

 夜遅くに到着した山陰の浦富海岸だ。さっそくテントをはり寝る準備。昼間のほてった身体を冷ますため漆黒の海を見つめていると、何やらチラチラ動く気配。サーチライトを照らすと、驚きの光景が。引き潮の浜辺一面を小さな赤蟹がうごめいている。数千匹はいたであろう。壮観である。昼間では決して見ることのない光景だ。奇跡の光景と言ってよい。
 今日は、テントに入らずタオルケットひとつで浜辺に寝ようか。蟹たちと同床異夢の一夜とするか。満点の星空を見ながらの夏のキャンプは何ものにも替えがたいしな。昼間の疲れもあって、綿のようになって寝入った。

 なにやら周りが騒がしい。子どもが騒ぐ声、大人の叫ぶような声、じりじりと照りつける太陽の中喧噪が押し寄せた。見ると、昨夜は蟹とたわむれるも静寂な浜辺が海水浴の客でごったがえしている! これは、たまらん。私は、大勢の海水客の中で夢ごこちであったのか。誰もが笑っていた。「ばかか、こんなところで寝て」という感じ。そんなことは知らんぞ。昨夜は、あんなに静かな浜辺だったではないか。興ざめの思いがよみがえる中、金比羅宮への階段を上る足下が視界に戻った。

 やれやれ、白日夢に見舞われたようだ。しかし、実に美しい記憶のかけらであった。金比羅宮詣での旅日記をしたためようと思ったのに、とんだ寄り道である。かくして想いは回顧を巡り、千段を超える階段に我が健脚の証をご披露する旅日記の機会を逸してしまったではないか。自由気ままな書きぶりとは言え、無念極まりなく擱筆する。

<19> 夢遙か、我が忘れじの名物先生

 たまに、学校の恩師の夢を見る。今だに夢に出てくるのだから、相当なインパクトを与えた先生たちだ。これほどの名物先生、私の心だけにしまっておくのはもったいない。ぜひ紹介したい。その名物先生は結構いる。今回は小、中、高校から、えいやっ!という気持ちで各限定1名の紹介である。

 小学校にはいろいろおられた。安平先生(さすがに仮名にさせてほしい)の、あの赤ら顔が真っ先に浮かぶ。お酒が相当いける口であった先生は、いつも赤ら顔をしておられた。実に豪快な先生であった。クラスには、自由奔放、やんちゃな男子がいて、いつも先生にしかられていた。そのしかり方が半端でなく、3メートルほどもある太い竹を抱え、その子の頭をガンガンたたかれるのである。今なら、体罰を越えて犯罪行為となるしかり方であった。その子は、たたかれてもものともせずやんちゃを続行するのであるから、大したものだ。 教師も児童も、バンカラの大人物がいたようだ。

 確か、若くもないのに大型バイクを飛ばし、片道1時間ほどの遠距離通勤を続けておられた。たまに先生は、高級料亭に出かけた経験を年端もいかない私たち児童に自慢げに話されていた。安月給の身の上では、よほど嬉しかったのだろう。「キュウリでも、スーとまっすぐなやつが出てきて、ほんまにおいしいんや」と話されていた先生の悦に入った顔が、なぜか忘れられない。子どもは誰も、こんな大人世界のこぼれ話が大好きだ。

 中学校にも名物先生は多数いた。城田先生は理科の先生。実に多才であった。黒板には印刷物のような活字を美しく書かれ、背を向けて板書中もずっとしゃべり続けられた。50分間、まさに隙のない授業で圧倒された。自慢なのかどうか、黒板の板書は消さずに退室されるのが常であった。次に教室に入ってくる先生は、その美しい板書に驚嘆の声を上げられた。その光景も、生徒にはちょっと見ものであった。バレーボール部の顧問もされ、あのトスさばきの華麗さは今だに目に焼き付いている。教師の模範のような先生であった。

 高校の先生は個性派ぞろい。ピカイチの個性派先生を紹介しよう。枝野先生は結構神経質で、こだわりの強い先生であった。入浴時にも石けんを使わないという変わり種でもあった。そのことを堂々と公言される。趣味も多彩であった。テレビで映画のロードショーを視ては必ず大学ノートにびっしりと感想を書き、その大学ノートがすでに5冊たまったと嬉しそうに話しておられた。ホームルームには他の先生をつれて即席バンドを結成し、ギター担当でフォークソングを奏でる。昼休みには、中庭で同僚相手にピッチング練習。さぞ、天国のような教員生活であったことだろう。
 そのくせ、授業はまめであった。「それでは、一献書いてもらおうかのう」、広島弁丸だしの先生の口ぐせであった。「楊貴妃がどれほど美しかったというと、ハンカチで汗を拭うと、その汗は桃色に染まったんじゃ」と真顔で話される。ほんまかいな、と思いながら、今でもその逸話が記憶に残っているのはなんだろう。

 こうして大学に入ると、名物先生との出会いはピタリととまった。一人で自ら歩んだ研究の道程がよみがえるばかり。

 幼きころの学校の先生の影響力は絶大なり。このことを肝に銘じて、教員予備群や現役教員は日々の鍛錬に励むべし。子どもひとりのその後の人生行路を決定するほどの影響力をもつのだ。

 大学教員としては、悔しくも、うらやましい存在なのだ、学校の先生は。忘れじの教訓としてほしい。

<18> 海外でのトラブル、ワンサカ、ワンサカ♪

 海外へは数え切れないぐらい出かけている。アメリカにいるときは、アメリカ中を飛び回った。しかし、根が慎重なせいか、大きなトラブルに巻き込まれたことはない、と思う。が、小さなトラブルには山ほど遭遇した。紹介しきれないが、海外旅行の参考程度に、記憶をたどりながらいくつか紹介しょう。今回は、アメリカ編のごく一部である。

 シカゴからワシントンでの出来事である。確か、学会で成田からワシントンに飛んだときだった。北米に入ってからしばらくして落雷の悪天候に見舞われ、搭乗機がシカゴのオヘア空港に急遽降り立った。乗客は誰もが不安な顔つきであった。何が不安かというと、この次の移動をどうするかという大問題がある。このようなときは、カウンターでクレームを入れ、飛行機のチケットを手に入れる必要がある。もう夕刻の遅い時間なのでこの日の便はないだろう。ホテルも手配してもらう必要がある。翌日には必ずワシントンに着かなくてはいけない。学会発表は待ったなし。結構切羽詰まった状況であった。

 カウンターの女性はちょっと横柄な感じたった。客の言いなりにはならん、という気構えが見える。アメリカではよくあることだ。なんせ、アメリカの某飛行機会社はキャビン・アテンダント機内食のパンを乗客めがけて投げつけるほどだ。やはり日本のどこやらの航空会社は世界一だと、しみじみ思ってしまう。
 しかし、ここで臆すればアメリカ人には勝てない。悪天候はどうしようもないかもしれないが、そんなことで遠慮していては相手にのまれてしまう。“It’s your fault!”(あんたらの責任だ)と、こっちは犠牲者だということを思い切り主張する。事実、犠牲者に違いない。それに、私たちは客なのだ。しぶる相手の目から視線をそらさず、迫力をもって主張し通す。とことん主張する。もちろん、声を荒げてはいないのでご安心めされ。あくまでもこちらは紳士である。
 アメリカ人は自己主張と押しが強いとよく言われるが、こちらが本気で主張するとことごとく折れる弱さがある。カウンター嬢は、私の目を見ず、チケットと、それにもちろんホテル宿泊券、さらに押したので夕食代まで投げつけるように手渡した。まっ、いいだろう。ことは決着した。

 そこからタクシーで町外れのホテルへ。なんというゴージャスなホテルであったことか。浴室は大理石で、湯につかりながら壁に備え付けのテレビが視れた。ベットもフカフカ。残念なことは、わずか数時間しかホテルに滞在できなかったことだ。早朝便に乗らねばならず、シャトルバスで空港に出向いた。眠い。実に眠い。ワシント行きの機中ではもちろん爆睡であった。

 到着したワシントンでも気まずいことがあったな。日本ではめったにしないのに、海外ではやたら道をたずねる。ある英文学者が、学徒のころ、分かっている道を尋ねては語学の勉強をしたと聞いたが、そんな、せこいことはしていない。本当にわからないから、てっとり早く聞くのである。聞くとほぼ全員丁寧に教えてくれる。こんなときは、アメリカ人はとても親切だ。
 それに慣れたのか、ワシントンのダウンタウンで、札束を数えている人に道をたずねてしまった。May I ask you a question? 即刻、No! とにらまれた。当然のことだが、久しぶりの拒絶に心が折れた。何もそんなににらまなくても・・・。しかし、悪いことをしたな、とつくづく反省した。守るべきはマナーである。
 
 ここは、せめてもの償いにアメリカのよいところを一つ紹介せねばなるまい。実は、日本人が思っているほどニューヨークでもどこでもアメリカは基本的に治安は悪くない。きわめて安全なのだ。ニューヨークからワシントンに列車で移動し、深夜に駅についてホテルまで20分ほど歩いたことがあった。暗闇の寂しい通りに、黒人が多くたむろしていた(ワシントンは黒人が多い)。しかし、一人歩いていても何も怖くなかった。私を見る彼らの目はフレンドリーなことこの上ない。人好きのする、明るい人たちだ。とにかく、すこぶる安全、安心なのだ。
 日本でもそうだが、何もかも安全ということはない。そうは言えば、デトロイトで怖い目に遭った。銃弾が頬をかすめるという恐怖の体験をしたのだ。やれやれ、これはまたの話にさせてほしい。


 まだまだトラブルは出てきそうだ。今回はこのあたりにして、次回を期そうではないか。

<17> マンザイ、バンザイ!

 これまで、結構お堅い、重い話を記事にしてきた。そろそろ、本来は柔らかい部分も多々ある人物であることを証すときが来た。そんな記事を織り交ぜねばなるまい。剛柔兼ね備えた人間であることをおおらかに語るときだ。

 何を隠そう、私はお笑いが大好きである。離れて久しいが関西生まれ、こてこての関西人である。大阪生まれと言いたいところだが、大阪まで電車で一駅の兵庫県川西市、源氏ゆかりの多田神社で産湯をつかった誕生である。これが惜しくも、「大阪生まれや」と公言することを禁じている。大阪で「大阪生まれや」と嘯くと、「大阪ちゃうやん」と突っ込まれた外傷経験を3度もっている。悔しい思いをすること甚だしいが、関西人には間違いないからな。

 関西人はお笑いの風土に生まれ、生きている。ボケには突っ込みを入れる生活習慣は未だに健在である。幼きころから「突っ込み養成ギブス」なるものを纏い、すかさず軽妙に相手の肩に「なんでやねん!」と突っ込みを入れる技を磨いてきた。奥深い山中で修行を積んだ武者のごとき生育史である。関西人は誰もがこの奥義をもっているのだ。

 ここ徳島の学生たちにボケてみせては突っ込みを待つこと幾星霜。その待ちはもはや詮無いことと諦観した。反応がないのである。まったくない。仕方がないので、伝家の宝刀、ひとり突っ込みを飛ばし、一息つく。空しいと言えば間違いなく空しく、希少に散らばる大阪出身の学生を見つけてはその憂さを晴らしている。やはり、大阪人の彼らは間髪入れずに突っ込んでくれる。こちらも、おかえしにボケには突っ込みを漏らさず返す。ありがたや、この麗しき人間愛。生きている心地がするではないか。

 こんな関西人気質の私は、当然のことながら漫才を好む。どちらというとしゃべくり漫才が好きだが、最近の騒がしいのも嫌いではない。和牛もいいが、霜降り明星もよい。ピンなら女性の芸人が味わい深い。男芸人など足下にも及ばないのだ、本当は。そして、漫才はなんといっても関西だ。関東のあの、鼻についたしゃべりは昔から性に合わない。いつもとりを飾る、関東の某漫才コンビが出るとチャンネルを速効で切り替える。大阪にとって、ここでも東京はライバルなのだ。負けたらあかん東京に、である。

 ところが落語はそうでもない。東京もよいのである。かつて柳亭市馬の落語会を名古屋で聞いて衝撃を受けたことがある。そう、若くして落語家協会の長を務める彼である。負けた、と思った。惨敗であった。何を競い合っているのか?というと、客の心をつかむ話芸である。私も講演は下手でない。むしろ、引きつけのある話をすると自負していた。ところが、ところがである。市場の話芸は至宝の輝きをもって、客を引き寄せてやまない。一介の研究者の私がたちうちできる代物ではなかった。

 こんな話で終わると研究者のレベルが疑われかねないので、最後に知識のかけらをひとつ。お笑いは健康に良いというのは本当である。免疫力が高まる。お笑いの反対の苦行、たとえば歯を食いしばって長距離走をすると、一時的だが免疫力が俄然落ちる。異常細胞を食い殺すキラー細胞の活性化が落ちるのだ。反対に、笑いやユーモアはその活性を上げる。
 こうは言っても、悲しみは長きに続くが、笑いは一過性のものだからたちが悪い。この面から健康になるには、ずっと笑っておけということか。現実にはそうも行くまい。節操のある笑顔は人を引きつけるが、笑いっぱなしの生き様は人を遠ざける。想像するがよい。笑いっぱなしの友人がいつもそばにいる生活を。うっとうしいことこの上ない。

 笑いは健康によいと言うが、大阪人は別に長生きではない。ということは、大阪人の笑いも結構シュールなものが多いのかもしれないな。大笑いして、やがて悲しい大阪人。
 妄想の上に調子に乗った雑文となった。これで、わがブログの愛読者が5人は去ったな。