kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<17> マンザイ、バンザイ!

 これまで、結構お堅い、重い話を記事にしてきた。そろそろ、本来は柔らかい部分も多々ある人物であることを証すときが来た。そんな記事を織り交ぜねばなるまい。剛柔兼ね備えた人間であることをおおらかに語るときだ。

 何を隠そう、私はお笑いが大好きである。離れて久しいが関西生まれ、こてこての関西人である。大阪生まれと言いたいところだが、大阪まで電車で一駅の兵庫県川西市、源氏ゆかりの多田神社で産湯をつかった誕生である。これが惜しくも、「大阪生まれや」と公言することを禁じている。大阪で「大阪生まれや」と嘯くと、「大阪ちゃうやん」と突っ込まれた外傷経験を3度もっている。悔しい思いをすること甚だしいが、関西人には間違いないからな。

 関西人はお笑いの風土に生まれ、生きている。ボケには突っ込みを入れる生活習慣は未だに健在である。幼きころから「突っ込み養成ギブス」なるものを纏い、すかさず軽妙に相手の肩に「なんでやねん!」と突っ込みを入れる技を磨いてきた。奥深い山中で修行を積んだ武者のごとき生育史である。関西人は誰もがこの奥義をもっているのだ。

 ここ徳島の学生たちにボケてみせては突っ込みを待つこと幾星霜。その待ちはもはや詮無いことと諦観した。反応がないのである。まったくない。仕方がないので、伝家の宝刀、ひとり突っ込みを飛ばし、一息つく。空しいと言えば間違いなく空しく、希少に散らばる大阪出身の学生を見つけてはその憂さを晴らしている。やはり、大阪人の彼らは間髪入れずに突っ込んでくれる。こちらも、おかえしにボケには突っ込みを漏らさず返す。ありがたや、この麗しき人間愛。生きている心地がするではないか。

 こんな関西人気質の私は、当然のことながら漫才を好む。どちらというとしゃべくり漫才が好きだが、最近の騒がしいのも嫌いではない。和牛もいいが、霜降り明星もよい。ピンなら女性の芸人が味わい深い。男芸人など足下にも及ばないのだ、本当は。そして、漫才はなんといっても関西だ。関東のあの、鼻についたしゃべりは昔から性に合わない。いつもとりを飾る、関東の某漫才コンビが出るとチャンネルを速効で切り替える。大阪にとって、ここでも東京はライバルなのだ。負けたらあかん東京に、である。

 ところが落語はそうでもない。東京もよいのである。かつて柳亭市馬の落語会を名古屋で聞いて衝撃を受けたことがある。そう、若くして落語家協会の長を務める彼である。負けた、と思った。惨敗であった。何を競い合っているのか?というと、客の心をつかむ話芸である。私も講演は下手でない。むしろ、引きつけのある話をすると自負していた。ところが、ところがである。市場の話芸は至宝の輝きをもって、客を引き寄せてやまない。一介の研究者の私がたちうちできる代物ではなかった。

 こんな話で終わると研究者のレベルが疑われかねないので、最後に知識のかけらをひとつ。お笑いは健康に良いというのは本当である。免疫力が高まる。お笑いの反対の苦行、たとえば歯を食いしばって長距離走をすると、一時的だが免疫力が俄然落ちる。異常細胞を食い殺すキラー細胞の活性化が落ちるのだ。反対に、笑いやユーモアはその活性を上げる。
 こうは言っても、悲しみは長きに続くが、笑いは一過性のものだからたちが悪い。この面から健康になるには、ずっと笑っておけということか。現実にはそうも行くまい。節操のある笑顔は人を引きつけるが、笑いっぱなしの生き様は人を遠ざける。想像するがよい。笑いっぱなしの友人がいつもそばにいる生活を。うっとうしいことこの上ない。

 笑いは健康によいと言うが、大阪人は別に長生きではない。ということは、大阪人の笑いも結構シュールなものが多いのかもしれないな。大笑いして、やがて悲しい大阪人。
 妄想の上に調子に乗った雑文となった。これで、わがブログの愛読者が5人は去ったな。