kydhp49’s diary

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<24> 教育は、天才を手放しで愛でてはいけない

 歴史上、天才の誉の高い人物は数多い。その人たちは成し遂げた業績で評価され、偉業としてたたえられる。しかし、人格的には決して賞賛される健全さを持ち合わせていないことが少なくない。
 類いまれなる創造物を生み出す天才は、多くのものを犠牲にしてきたようだ。ここで、学校教育は天才の偉業を賞賛するばかりではいけない絶対使命を持つことを語らねばなるまい。

 この流れで、私はよくモーツァルトを例に出す。ウィーンに行けば、モーツァルトの足跡がいかに偉大であったかがよくわかる。日本ではウィーンは海外旅行先ではNo.1の人気を誇るらしいが、その理由は容易に察せられる。ウィーンは、ゴージャスな文化の歴史が香り立つ、気品ある都市だ。しかし、その香りがモーツァルトの人となりにそぐうのだろうか。その作品は多くの人を現在もなお魅了するようだが、彼の人格は決して健全なものではなかった。品行も悪く、浪費癖も甚だしく、幸せな家庭性格とは無縁の生活を送くり、悲劇とも言える短い生涯を閉じる結末に至った。

 彼の天才性は遺伝のみならず、早期の英才教育で培われたと言われる。されば、早期の教育を否定すれば、この天才の芽を摘むことになったのか。私はあくまでも早期の教育を否定する。早期教育は、いかに綺麗ごとを纏っても、健全な人格と真の能力の育みに大いに反することになるからだ。
 早期教育の脱落が天才の芽を摘むとも思えないが、百歩譲って、そうだとしよう。されどなお私は、摘まれれば良い、と明言するだろう。教育とは一つの個性を伸ばすことよりも、全人格的な人物を育て上げることに一大使命があるからだ。天才的な個性は、突き出るようにほとばしる個性であり、全人格的な健全さの上にそそり立つものでなくてはならない。

 私個人でいえば、天才のいかに素晴らしい業績を前にしても、その背景に全人格的な健全さがなければなんの感動もないのである。この信念は実に正確に、私の教育指導の航路を正していく。私にとっては、全人格的に健全な人の育成が何にも増して重大事だ。なぜなら、それが人ひとりの幸いを保証する。幸いなる人生の創造は、教育の最大使命である。教育とは、かくも凜々しく、美しく、尊い営みと心得よ。

 ノーベル文学賞に輝いたヘミングウェイの作品に心うたれる人は多いだろう。しかし、彼の人格は能力以上の要求水準の高さにむしばまれ、最後は猟銃で頭を打ち抜き自殺へと至った悲劇を忘れることはできない。「老人と海」は彼の自画像とも言える意味深い作品だ。村上春樹ヘミングウェイを好まないとみるが、そのことはよく理解できる。文体から人が見えるのだろう。

 アインシュタインはどうだろう。ニュートン物理学を数百年ぶりに塗り替えた彼の業績の偉大さを疑うものは誰もいない。しかし、チューリッヒ工科大学の校舎前で彼が失意のうちに見たチューリッヒの町並みは悲しげだ。時間をわすれその場に佇んだ私の想いは馳せる。その生き様はそれでよかったのかと。
 大学に職を得ず追われたのは、当時の教授たちの授業に一切の興味をもたず、ひたすら自分の興味を追っていたことによる。これは美談のように語られ、それだからこそ偉業をなし遂げたと誰もが言う。しかしその天才性は、人の悲哀に共感し、人を傷つけずに慮る人格とは同居できなかったのであろうか。家庭生活の不幸もそのことに通じていよう。

 学校教育は、天才の出現を期待する。しかし、それは全人格の健全さの上に突き破るように出る天才であるべきことは、決してゆずれない信念となる。