kydhp49’s diary

健康や幸福の香り漂う、ホロ苦「こころのホット・ココア」をどうぞ!

<28> 学会シンポジウム、ドタバタ旅日記

 例年、9月から10月にかけては、日本心理学会と日本教育心理学会でシンポジウムを企画し実施している。私自身が話題提供者になることも多い。今年は、両方で企画と話題提供を行った。しかも、日本心理学会と日本教育心理学会は、一日の間も置かず連続の開催であった。
 それも、日本心理学会は大阪、日本教育心理学会は東京という遠距離、時間差なし開催である。ちょっと、きつかったかな。一度に済んで楽ちんという声もあるが。

 私の研究室は、基礎と応用の両輪を走らせているので、日本心理学会は基礎系、日本教育心理学会は応用系と、シンポの内容をくっきりと区別している。今年の基礎系テーマは、パーソナリティ研究の根幹にかかわる内容、応用系は、もちろん、私たちが全国展開を目指している予防教育に関するものだ。
 予想どおり、日本心理学会は階段教室にほぼ満席の盛況であった。日本教育心理学会はそれほどでもなかったがまずまずの入り。多くの方に興味をもってもらえてよかった。

 シンポの内容は別の機会に譲るとして、とにかく大阪は暑かった。じっとしていても汗が出るほどの暑さ。うって変わって東京は涼しかった。たまたまであろうが、同じ日本でも随分気候が異なる。

 学会ではひさしぶりに旧知に出会う。近況を語りあうのも、また楽し。シンポの夜は、決まって懇親会を開く。この懇親会は飛び抜けて楽しい。今年も、笑いが絶えなかった。大阪では、大阪外からの参加者がやけにわが徳島のことをよく知っていて、私などはもぐり扱いされ、冷や汗をかいた。なにせ、今や全国区になった大塚美術館にも行ったことがないのである。昨年暮れの紅白で米津玄師さんが熱唱し、ファンには聖地と化した美術館らしい。

 東京では、参加者のほぼ全員が西日本在住で、身近かなご当地の話題で盛り上がった。滋賀は関西とは考えていないと私は言い張り、異論噴出、炎の討論会となった。しかし、あの琵琶湖という茫洋たる湖を抱える滋賀は、我々にとっては異端なのである。フナ寿司がおいしいと言う、滋賀県人も理解不能だ。ただ、ひこにゃんはかわいいから、許されよう。何を隠そう私は大阪出身で(これも異論があるが)、幼少のみぎりより琵琶湖の水をちょうだいして育った身の上では、いじけた話ぶりになるのもやむを得まい。

 こんなばかばかしい会話の中にも、ピリっとした学問上の話も加わる。名誉のために、文脈もなく付言しておく。

 さてさて、来年はどのような学会風景が待ち受けているのであろうか。しかし、来年のことはまだまだ考えられない。今年はこの後、これまた恒例の海外の学会発表が続く。学会参加は研究者にとってはアクセントのようなもの、かな。貴重なひとときであることには間違いない。

<27> アジア歴訪 ― 躍動感あふれる台湾

 このブログでは、アメリカやヨーロッパでの体験はよく紹介してきた。と、振り返ってみると、アジアでの体験はほぼ紹介していないことに気づいた。というのも、西欧諸国行きと比べて訪問頻度がそれほど高くないことによる。
 しかし、最近は毎年のようにアジア圏の国を訪れている。といっても、例のごとく、学会参加や仕事上での訪問ではあるが。

 数年前に最初に訪れたのは台湾である。これは、台北市の大学との協定を結ぶ仕事に、講演の仕事も重なった。これまで、アメリカやヨーロッパによく出かけていた身には、時差もほぼなく、ほんの数時間での到着ということで頗る快適な行き帰りの飛行機便であった。
 台湾の空港に降り立ったときは、ここが異国かと疑うほどの近場で、人々の髪の毛も日本人と違わない。到着するそばから親近感満載である。

 街は活気があり、特に若者のエネルギッシュな様子が印象に残っている。1世代前の日本の状況がこれに似た状況かもしれない。日本が統治していた頃の印象が良かったのか、誰もがたいへん親切にしてくれた。片言の日本語を話せる人も多い。本当に親切で、どう返礼してよいか戸惑ったほどだ。
 近代的なビルが立ち並ぶなかでも、古びた商店街が街の隅々に散らばっていた。むしろ、そのような古びた街並みに、台湾らしい、暖かみのある風情を見ることができ、癒された。
 それにしてもバイクの数が多い。車の間を縫うように器用に走りぬく人々に、危ないな、と感じる前に、あふれんばかりの活力にあっけにとられた。時折走る新幹線がスマートな印象を付加していた。新しいもの、古いもの、活力、親切・・・、さまざまなものが混在し、どれもが好印象を抱かせる。 

 講演は大学のキャンパス内で行われた。英語でOKということで、私たちが進める予防教育について一時間半ほど話させてもらった。熱い、熱い。気温が高いということではない。聴衆が熱いのである。しっかり聴き、しっかり質問してくれた。さすが、新しいものを吸収しようという気概が違う。すぐにこちらの予防教育が台湾で広がるということはないであろうが、吸収するぞ、という気迫に満ちていた。 

 滞在中にちょっとした地震もあった。なぜか、そこにも日本と同じと親近感を感じた。台湾と言えば、最近の香港事情が重なる。日本にはない複雑な中国との関係が住む人を不安にさせている。中国、香港、台湾の悲しく、厳しい歴史は、日本人の同情をはねつけるように重い。自由と幸福とが、この国にいつまでも続くことを、ただ祈るばかりである。

 その後訪れたのはシンガポールだ。ここはまたがらりと変わった印象で、日本など足下にも及ばない発展ぶりに度肝を抜かれた。また話したいな。

<26> 教師としてのしあわせ ― 32年ぶりの奇跡の再会

  ある大学の先生から聞いた話である。どうしても伝えたいので、私の勝手な想像を細部に加え、物語りを紡いでみたい・・・。

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 少し前のことだ。私は東京行きの機上にいた。もう数時間もすれば、なんと、32年ぶりに、以前勤めていた大学の教え子に会う。
 
 1年半ほど前に、分厚い封筒が大学に届いた。中には手紙があり、16枚もの便箋にびっしりと手書きの文字がしたためられていた。美しい字が1点の訂正もなく紙面を埋めていた。
 差し出し人は、30年ほど前に勤めていた大学の教え子であった。そう紹介されていたので間違いない。このような手書きの長文の手紙は珍しく、どのような手紙だろうと興味をもって読み始めた。

 手紙をくれたきっかけは、私の書籍を書店で見かけて読んだくれたことだったらしい。30年と一言でいうが、その歳月が人の生活にもたらす彩りは悲喜こもごもであり、容易には語り尽くせない重みがある。そこには、この学生が卒業後の経緯がしたためられていた。幸せな結婚をし、平穏な生活を過ごしていたようだ。子どもはいないものの、駅近くで自営の書店を営み、通勤客や子どもたち相手に毎日忙しくしているということだった。2畳ほどの小さな書店らしいが、街の人たちから愛されていることを想像させる書きぶりであった。

 さらに、当時の大学での生活、友達との交流、それに、私の授業時の振る舞いへの印象等が懐かしそうに綴られていた。最後に、「先生、私にも幸せの青い鳥が舞い降りました」と書かれていた。そのフレーズは、私の書籍の最後に書かれた言葉そのものであった。

 これほどの濃い内容を1点の間違いもなく書きしたためた手紙は、私の心の深いところに響き、さっそくお礼の手紙を送った。その後、彼女は私のネットでの発信を読むようになってくれたようで、たまにメールもやりとりするようになった。
 
 学生は東京の文京区に住んでいるらしい。東京にはよく行くので、ぜひ会ってみたい。そうメールで伝えると、学生は喜んで応じてくれた。

 東京駅前のホテルのロビーで会うことになった。近くで会議をしていたので、時間を無駄にしてたくはなくてそこを選んだ。会議が思いのほか早く終わったので、場所と時間を変えようかと学生に電話をしてみた。すると、待ち合わせの時間にまだ1時間もあるというのに、すでにホテルのロビーにいるという。

 驚いて行ってみると、ロビーの隅に落ち着かないそぶりで立っている人がいた。祝日なのでホテルには大勢の人がいたが、私はひと目でその学生だとわかった。32年間一度も会わず、写真を見たわけでもないのに、まがうことなく学生だと確信した。学生もひと目で私だとわかったようで、二人は一瞬目と目を合わせたまま立ちつくしたが、すぐに小走りでかけより挨拶を交わした。その瞬間32年間の時間の溝は埋まり、つい昨日まで会っていたかのように打ち解けた雰囲気が二人を包んだ。実に不思議な瞬間だ。

 それから、お茶を飲みながら、学生時代の話やら、その後の学生の結婚、書店の切り盛り、ご主人のこと、ご両親のことを時を忘れて話してくれた。カウンセリングの仕事で人と話すことは慣れているが、これほど心おきなく安らかに人と語れるのは初めてのことかもしれない。
 それほどに、この学生の豊かな心情と人を思いやる心根のやさしい人格は私をなごませてくれた。
 あっという間に2時間ほどがたち、私たちは東京駅まで楽しげな会話を続けながら歩いた。そこから、学生はメトロに、私は山の手線へと別れた。途中何度か学生の方を見返したが、そのたびに学生は私の方を見て手を振ってくれた。
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 なんと美しい話だろう。恩師と学生の結びつきとはかくあるべし、という夢物語りである。我が身を振り返り、このような学生のひとりでもいてくれるだろうか。きっといる。この先生のような劇的な出会いがなくても、どこかできっと私の活動をそっと見守ってくれている学生がいる。

 もしそのような学生に出会えたら、私はどうするだろう。願わくば、全力でその学生の幸いを守れる恩師であり続けたい。教師は、ひとりの学生の一生に責任をもつほどの覚悟で教育を授け続ける必要がある。教師の生きざまとは、そうしたものだ。
 そのことを思い出させてくれた、この学生と先生に、心からの感謝を捧げたい。私にとっても、まさに奇跡の再会となった。

<25> 私たちは、無意識の力に牛耳られている!

 神経生理学者のリベットは、我々には自由意志がないことを見事に証明した。その研究は実に衝撃的であった。

 簡単に彼の実験を紹介しておこう。参加者には、好きなときに手首を曲げてほしいと伝える。その際、手首の動き知るための筋電図と脳からの指令の開始を知る準備電位を測定する。そして参加者には、眼前の秒針のようなスケールを見て、その針がどこの時点にあるときに「曲げようと思ったか」を報告してもらった。

 結果はまさに驚天動地。曲げようとする意志が働く以前に、脳から曲げる指令が出ていたのだ。つまり、人間は考える前に決定し、行動しているという事実を私たちの前に晒したのである。もちろん、細部の条件を見ると、事実は複雑にからまるのであるが、そのあたりは私の専門にかかわるので説明はご容赦いただきたい。このブログでは、自らの専門性は極力出さないことをルールにしているからには(汗)。

 しかし、その後の追試結果の良好さを見ても、およそは自由意志がないと言い切ってよい。この事実は私たちの日常の感覚とは大きくずれる。ああ、人間の高邁な生きざまが否定されていくのか。真実とは、ややもすると、このように真っ向から常識に刃向かうものである。地動説が出たときのことを想えば、そのことがよくわかる。地面が動いている感覚は日常とはあまりにも乖離する。
 自由意志がないという事実はまだ一般には伝わっていない。いっそのこと、お蔵入りさせるべきかと思われるほど、衝撃の事実なのだ。

 近年の脳科学や心理学は、思考も行動も含めて、私たちの営みの9割は無意識によって決定されているという。では、たとえ1割とはいえ、意識は何をしているのか。わかり切った質問のようで、これに答えることはきわめて難しい。対面している相手に意識があることさえ、本人が証明するのは至難のわざだという現実をご存知だろうか。

 結論だけ言っておくと、意識は実に頼りない。無意識の手下のような存在である。無意識の動きに左右され、自分自身を騙すがごとく振る舞っているばかり。情けないことこの上ない存在だ。

 さて、こう考えてくると、「人間とは何だろう」という問いに、やはり行き着いてしまう。多くの科学者は、科学の謎に迫れば迫るほど神の存在を信じざるを得ないという。所詮人間は、我々に与えられた感覚機能や脳機能を越えて推論を展開することはゆるされない、という絶望にもぶち当たる。

 ひょっとして、眼前には異次元が広がっていて、現世とは異質な世界に囲まれているのかもしれない。そこでは、何かが存在するとか、何かの自然法則があるとか、そんなこととは無縁の、想像を絶する世界が支配しているのかもしれない。潜在的な広がりのヴァリエーションの無尽を思うと、この宇宙に現存するカテゴリーは砂浜の砂粒1つほどの重みもないだろう。

 宇宙は有限であるという。際限なく膨張しているようだが、その終焉も予測されている。この世に宇宙という実体しかないわけがない。その外には何があるのだろうか。実体? 外? そのような儚い概念で何かをとらえようとしている人間にはやはり限界を感じてしまう。しかし、それが人間に与えられた力のすべてだと諦観すべきか。
 いやいや、ここはひとつ、その限界を乗り越えてみようではないか。

<24> 教育は、天才を手放しで愛でてはいけない

 歴史上、天才の誉の高い人物は数多い。その人たちは成し遂げた業績で評価され、偉業としてたたえられる。しかし、人格的には決して賞賛される健全さを持ち合わせていないことが少なくない。
 類いまれなる創造物を生み出す天才は、多くのものを犠牲にしてきたようだ。ここで、学校教育は天才の偉業を賞賛するばかりではいけない絶対使命を持つことを語らねばなるまい。

 この流れで、私はよくモーツァルトを例に出す。ウィーンに行けば、モーツァルトの足跡がいかに偉大であったかがよくわかる。日本ではウィーンは海外旅行先ではNo.1の人気を誇るらしいが、その理由は容易に察せられる。ウィーンは、ゴージャスな文化の歴史が香り立つ、気品ある都市だ。しかし、その香りがモーツァルトの人となりにそぐうのだろうか。その作品は多くの人を現在もなお魅了するようだが、彼の人格は決して健全なものではなかった。品行も悪く、浪費癖も甚だしく、幸せな家庭性格とは無縁の生活を送くり、悲劇とも言える短い生涯を閉じる結末に至った。

 彼の天才性は遺伝のみならず、早期の英才教育で培われたと言われる。されば、早期の教育を否定すれば、この天才の芽を摘むことになったのか。私はあくまでも早期の教育を否定する。早期教育は、いかに綺麗ごとを纏っても、健全な人格と真の能力の育みに大いに反することになるからだ。
 早期教育の脱落が天才の芽を摘むとも思えないが、百歩譲って、そうだとしよう。されどなお私は、摘まれれば良い、と明言するだろう。教育とは一つの個性を伸ばすことよりも、全人格的な人物を育て上げることに一大使命があるからだ。天才的な個性は、突き出るようにほとばしる個性であり、全人格的な健全さの上にそそり立つものでなくてはならない。

 私個人でいえば、天才のいかに素晴らしい業績を前にしても、その背景に全人格的な健全さがなければなんの感動もないのである。この信念は実に正確に、私の教育指導の航路を正していく。私にとっては、全人格的に健全な人の育成が何にも増して重大事だ。なぜなら、それが人ひとりの幸いを保証する。幸いなる人生の創造は、教育の最大使命である。教育とは、かくも凜々しく、美しく、尊い営みと心得よ。

 ノーベル文学賞に輝いたヘミングウェイの作品に心うたれる人は多いだろう。しかし、彼の人格は能力以上の要求水準の高さにむしばまれ、最後は猟銃で頭を打ち抜き自殺へと至った悲劇を忘れることはできない。「老人と海」は彼の自画像とも言える意味深い作品だ。村上春樹ヘミングウェイを好まないとみるが、そのことはよく理解できる。文体から人が見えるのだろう。

 アインシュタインはどうだろう。ニュートン物理学を数百年ぶりに塗り替えた彼の業績の偉大さを疑うものは誰もいない。しかし、チューリッヒ工科大学の校舎前で彼が失意のうちに見たチューリッヒの町並みは悲しげだ。時間をわすれその場に佇んだ私の想いは馳せる。その生き様はそれでよかったのかと。
 大学に職を得ず追われたのは、当時の教授たちの授業に一切の興味をもたず、ひたすら自分の興味を追っていたことによる。これは美談のように語られ、それだからこそ偉業をなし遂げたと誰もが言う。しかしその天才性は、人の悲哀に共感し、人を傷つけずに慮る人格とは同居できなかったのであろうか。家庭生活の不幸もそのことに通じていよう。

 学校教育は、天才の出現を期待する。しかし、それは全人格の健全さの上に突き破るように出る天才であるべきことは、決してゆずれない信念となる。

<23> 逆転の発想! 英語習得力の低い者こそ、本当の英語教育を語れる!!

 仕事がら英語は道具として使っている。別に得意ではないが、道具としては機能しているから、それでよし。日本では、この英語の学習が重視されている。ご存知のように、小学校では英語は教科となる。

 この点、英語を母国語とする人たちはのんきである。アメリカでは英語以外の言葉を学ぶ人は20%しかいない。その必要がないのだ。移民が多いアメリカでは第3世代ともなれば母国語を話せない。これまた、その必要がないのだ。母国語として世界でもっとも話す人が多いのは中国語である。次がスペイン語。だが、英語ほど広範囲で使われている言語は他にない。話せる人の多さなら断然世界一であろう。

 さて、英語をどう習得するか。日本では実に多様に英語を学ぶ商いがはびこっている。また、様々な学習方法も提起されている。しかし、どれも決め手がなく、救世主となれるほどの学習方法はいまだ皆無である。
 なぜか。おそらくそれは、その学習方法を生み出す人たちがもともと英語習得能力が高い人たちばかりだからだろう。つまり、英語習得力の高い特別の人たちに適した方法となる。喉から手が出るほど、スーパー・メソッドを待ち望んでいるのは、英語習得力平凡人の我々だ。
 英語の力がまったくなくて、悪銭苦闘した挙げ句英語をものにした人が、学習方法を編み出したらすごいことになるだろう。それはそれは、効果覿面の方法となろう。残念ながらそれはまだない。英語を悪銭苦闘してものにした人は、そんなことは恥ずかしくてできないのかな、と拝察する。

 私もその類である。泥臭い英語勉強法をやってきた。英会話テープはテープが伸びきるまで聞き倒し、女性陣に混じって英会話学校も通い詰めた。ラジオ講座もまじめに聞き続けた。しかしどれも、これが一番という方法はなかった。言っておくが、アメリカで数ヶ月ぐらい語学学校に通っても無駄だ。学位をとるほどの過酷な環境で何年も過ごすのなら別だけど。

 しかし思うが、英語を習得する必要性はいつまで続くのだろう。通信も5Gになると、格段と通信速度と容量が増え、機械による同時通訳もラグがなくなるという。機械が聞き、しゃべってくれる、かつての未来ものがたりが現実になる日も近い。そのころには、コミュニケーションとしての英語学習の意味な何になるだろう。英文学や英語学としての意味は続くのだろうが。
 
 世界を渡り歩いていると、実に多くの英語があると実感する。英語はコミュニケーションとして使えればそれでよい。どうしても必要な状況に陥れば、英語ぐらい誰でもものにできる。なんといっても日本人は日本語を見事に操っているのだから。村上春樹は語学の天才らしい。学校の英語の成績は今いちだったようだが、高校時代から英語の原著小説を読んでいた。好きこそものの上手なれ、ということだ。私も読んでいたが、1ページ読むのに数十回も辞書を引くようなみじめな読み方かしかできなかった。

 英語学習とは何だろう、どうあるべきだろう。何年も学校で英語を学んでもものにならない日本人が、無駄な教育を小学校にまで広げようとしている、と叫ぶ向きは多い。こういう意見を耳にするたび、いろいろと考えさせられる。いまだにビジネス英会話をラジオで聞いている私は、つくづくやるせない。もう20年ほど聞き続けているのだから。

<22> アメリカ合衆国、道場破り滞在記

 思い返せば、10年ごとに研究環境をがらりと変えてきた。その変貌はそのときどきで違うが、とにかく10年以上の単調な繰り返しを厭う体質のようだ。

 あるときは、研究の対象を乳幼児から児童青年に変え、またあるときは、日本という研究環境を変え、アメリカに1年の居を構えた。中でも大きな変化であったアメリカの滞在について、今回は書かねばなるまい。それは、私の研究基盤を塗り替えるほどの経験であった。

 日本からアメリカに行くとあらば、何かを学びに行くというのがお決まりのコースであろう。しかし、私の場合はそうではない。道場破りまがいの滞在を望み、計画した。道場破りと言えば聞こえは悪いが、きわめて紳士的な行為ではあった。つまり、私がそれまでに日本で開発した、子どもの健康と適応を守る教育プログラムをひっさげての渡米である。具体的に言えば、暴力予防とうつ病予防プログラムのご披露である。この手のプログラムでは本場と言えるアメリカの地で、あちらの研究者や教育者を向こうに回し、日本発のオリジナルプログラムが本場で通用するかどうかを、実地で確かめてみようという、大それた挑戦であった。

 具体的な道場を決めて出かけたわけではない。およその目星は日本でつけたが、実際は渡米後、アメリカの各地を縦横無尽に巡る飛び込みである。「たのもう!」の一声に答えてくれた大学や研究所は数多く、おかけで首尾良く目的を達成できた。さすがに、異質なものを飲み込むアメリカ人気質のありがたさであった。心からの感謝を捧げたい。
 
 勝敗の行方は、痛み分けであった。こちらのプログラムの方が遙かに良いところもあれば、あちらの方が俄然良いところもあった。あちらがうなれば、こちらもうなる。その結果、自然と双方が良さを吸収することになり、こちらのプログラムも急成長した。

 その成長の証が、帰国後に予算と人力を存分に注いで完成に至った、新生の予防教育プログラムであった。それが今、全国普及の途に就いている。歩みは決して速くはないが、着実に浸透している。また、浸透しながら発展を重ねている。その進展は、現在第3世代へと進化を遂げているのだ。

 ミシガン州の大学に拠点を置きながら、ニューヨーク、コロラドオハイオ、カリフォルニアと各地を回った。まるでドサ回りのような生活であった。ほんの数人の聴衆から、百名ほどの聴衆までいろいろであったが、とにかくがむしゃらに発信してきた。

 しかし、今思えば、それほどしんどい旅ではなかったな。マイルハイシティのデンバーで橋の欄干から時を忘れてみたロッキーの透き通るような山並み、近代都市シカゴから見たミシガン湖の海のように波打つ湖面、ニューヨークの9/10のテロ跡に見た世界の混迷 ― いずれも、ストレスに満ちた道場破りの活動に深い彩りをもたせてくれた第一級の思い出だ。また、ストイックな生活を貫いたことも忘れられない。なにせ、単身渡米の身では病気一つできないのだ。原則朝昼晩は自炊、夕刻の運動は欠かさず、生活習慣満点の生き方はあのときに培われたようだ。 まさに環境は人を育てる。

 しかし、さすが心理学の本場である。その懐の深いアメリカ合衆国研究史と研究者魂は、私に多くのことを教えてくれた。今の歩みの一歩、一歩は、その教えに支えられた歩みに違いない。そのことを忘れずにいる自分だからこそ、今もなお第一線に立っている。ふと感じる、ささやかな矜恃である。

<21> 隠れ児童文学作家の知られざる正体

 何を隠そう、私は児童文学作家でもある。といっても、プロではない。アマチュアである。つまり、これで禄を得ているわけではない。

 祝日など日がな一日、ポカリと空いた時間を使い、コツコツとワープロを打ち、物語りを奏でる。これまで、長編、短編選ばず書いてきた。「砕けよ、地球! ルビアン星の野望」、「盗まれた学校」、「頭の中の、もうひとりのきみ」、「おさるがとんだ世界一の宙返り」・・、まだまだあるぞ。

 たまによい出来のものができると、作品コンペにも応募する。〇〇賞をとって商業出版され、多くの人に読んでもらいたいではないか。しかし、ことごとく夢破れ、応募するはしから落選、落選の連続。自尊心がこてんぱに破壊され、我が作家才能の低さを思い知らされる。とはいえ、書くのは止めぬ。好きなのである。心底書くことが好きなのである。

 プロの作家は、例外なく幼きころから多読家であったらしい。私も小学校ぐらいまでは負けじと多読を誇り、学校の図書館の本を読み漁った。貧しい家では、たまに買ってもらえる童話を何度も何度も読み込んだ。図書館の湿り気のある部屋の一角で、書物の乾いたページをめくり読み進める快楽は何にも替えられない。この点では、私はエピキュリアンであろう。

 それが中学時代になると俄然スポーツに目覚めた。なまじっかスポーツ万能であったせいか、本を読む時間と興味をスポーツが覆った。読書習慣が復活するにはその後6年ほどを要し、大学に入るころとなる。正直、この空白の6年には焦った。もはや無駄な読み方はできぬと、読書論をむさぼり読み、計画的に古典を読み続けた。しかし、その6年のハンディはいかんともしがたく、プロになる作家力の回復は見込めなかったようだ。しかし、その後の読書三昧は今のこのときまで続いている。寝る前の読書は格別で、秘密のノートをつけながら読み続けているのだ。

 こんな私がその生き様に共鳴する作家の一人に浅田次郎氏がいる。彼も図書館でむさぼるように読書をした口だ。若くして、作家になりたい、いや、なると決めていたから、その覚悟がすごい。しかし、書きしたためる作品をかたっぱしから懸賞応募するも、ことごとく落選。それでも、書く。自衛隊に入ろうが、営業をしようが、競馬に打ち込もうが、とにかく書く。いまだに、赤の罫線で名入りのオリジナル原稿用紙に万年筆を握りしたためるスタイルは、「書く」という言葉が実によく似合う。
 ようやく原稿が活字になったのは30歳半ば、単行本になったのは40歳直前という遅咲きであった。しかしその後の活躍は、世間でよく知られていよう。ベストセラーを連発し、直木賞もぶんどり、破竹の勢いで進軍している。1冊の良書は素人にも書ける。しかし、それが連発されるとなると、本当のプロだけが持つ才による。

 この作家が書いたものには月に一度は出会うさだめ。東京行きのJAL機内誌「スカイワード」の連載エッセイ「つばさよつばさ」は欠かさず読むことになる。まさか、それを読むために搭乗しているのはないのだが。

 この作家は遊び心がある。生き様それ自体が遊び人である。競馬というバクチで世界中を飛び回っているらしい。しかし、身をほろぼすほどのバクチ通ではなく、集計すると生涯収支わずかにプラスというからすごい。嵩じて馬主にもなっている。いかに持病の狭心症の発作に怯えようと、肉汁したたるステーキはむさぼり食う奔放さもある。

 それに引きかえ、私の作品は世に出ないな。彼と違ってまったく遊んでいないのに不思議なものだ。おっと、専門の仕事では何冊も単行本を出しているのでお忘れなく。悔しいので、その鬱憤をブログに打ち込んでいるようなものだ。まじめくさった文章をここに書くつもりは毛頭ない。多くの人が読んで、ほのぼの、幸せな気持ちになれる内容を書くことに最近は心がけている。その反動は、私の専門書に出るからご安心めされ。
 
 かくして私も、七色仮面ならぬ、七色執筆者となり、ひた走るのである。

<20> ズッコケ、青春蟹まみれ旅行

 今年は希有な10連休。とは言え、大学での研究や教育上の仕事がある。いずれも自ら率先してやりたいことなので、仕事と呼ぶのは憚られる。趣味とか、生きがいとかいう代物だ。仕事が楽しいものとなれば格別の味わいがあり、それに没頭できることは精神と身体に頗る好ましい影響をもたらす。

 サクサクと趣味ははかどったが、連休半ばでその趣味にも倦じて、旅の空が見たくなった。それに、世間の弛緩しきった休日ムードが脅迫的に旅情へ誘う。まさかこの状況で宿泊付き旅行はないので、日帰り旅行と決め込んだ。行き先は、私の中では言わずと知れた金刀比羅宮である。麓の琴平駅に別用で立つこと幾度、未だに本宮に出向いていないという不可解千万のかの地である。

 徳島から一人高速バスに乗り高松駅で降車した。続いて、高松築港駅から琴平電鉄に急ぎ乗り、目的地を目指す。計画は完璧だ。しかし、琴平電鉄はいい。このレトロな雰囲気、田園風景の中を走るのどかな趣。「一人旅はいいな。うん、やはり旅は人生の洗濯だ」としみじみ思う。しかし、ゴトゴトと上下の揺れが激しい電車だ。よく揺れるなあ、と思ったとたん、思考は遙か数十年前の学生時代の旅中に飛んだ。

 大阪発夜行急行列車「北国」の車中だ。目指すは北海道だった。一年に一度は、リュックサックにテントを担いだ気まぐれ旅に出ることが学生時代の常であった。当時蟹族という言葉がはやった。横長のリュックを背負い、列車の通路を進むには蟹のように横歩きを余儀なくされたことによる。その蟹族の滑稽な姿をもっとも長くさらしたのは、なんと言っても北海道旅行である。大阪から夜行急行列車で青森を目指す。貧乏旅行には最高の贅沢だが、旅程の効率化からこれしかなかった。自由席で座席を3つ確保できれば、くの字になって眠ることができる。必然の経験からの裏技である。

 大きくきしむ車内では熟睡できるはずもなく、覚醒と眠りの中間状態で青森駅に降り立つ。当時はまだ青函連絡船が走っていた。ふ~む。夜行列車から連絡線か。これ以上の旅情の深まりはないな。列車の到着に合わせて船が出るので、休む暇なく乗り込み函館を目指す。船の汽笛はなおさら旅情を誘う。「は~るばる来たぜ函館~♪」サブちゃんの演歌が軽快に脳裏に響く。
 函館に着けば待ち時間なく札幌行きの列車だ。車窓からみた北海道の景色は忘れられない。とにかく土と家が違った。黒土の上に鋭角のスレート屋根が生えるように建てられている。夏の風景を見ながら、すっかり雪に覆われる冬を十分に想像できる。

 そこから、北の大地を巡る、めくるめく旅が広がった。その思い出が広角に広がり、どれに焦点を当てようかと途方にくれる。そこで選りすぐりの行き先として、網走が登場する。列車で北キツネと並走した網走までの光景もいいが、網走と言えばやはりあそこだ。網走刑務所ではないぞ。網走の駅のプラットフォームで夜を明かしたときのことである。真夏といえ、北海道の夜は底冷えする。とくに足先が冷たい。持参の靴下を4枚重ね着をしても冷たさで何度も目をさます。疲れからようやく深い眠りについたのは夜明け前であった。そのとき、突然耳をつんざくような鋭利なガキーン!という金属音が近くで響いた。何事かと驚いて飛び起きた。まだ夜明け前だぞ。何が起こったのか?! 見ると、昨夜はなかった車両が寝床の横に鎮座している。あたりを見ると、次々に車両が連結されていく。ガキーン、ガキーン! 判明! 耳元で車両の連結器が接合され、けたたましい音が響いたのだ。やれやれ肝を冷やしたぜ、と苦笑いで思い出していると、一気に山陰の海岸に記憶が飛んだ。

 夜遅くに到着した山陰の浦富海岸だ。さっそくテントをはり寝る準備。昼間のほてった身体を冷ますため漆黒の海を見つめていると、何やらチラチラ動く気配。サーチライトを照らすと、驚きの光景が。引き潮の浜辺一面を小さな赤蟹がうごめいている。数千匹はいたであろう。壮観である。昼間では決して見ることのない光景だ。奇跡の光景と言ってよい。
 今日は、テントに入らずタオルケットひとつで浜辺に寝ようか。蟹たちと同床異夢の一夜とするか。満点の星空を見ながらの夏のキャンプは何ものにも替えがたいしな。昼間の疲れもあって、綿のようになって寝入った。

 なにやら周りが騒がしい。子どもが騒ぐ声、大人の叫ぶような声、じりじりと照りつける太陽の中喧噪が押し寄せた。見ると、昨夜は蟹とたわむれるも静寂な浜辺が海水浴の客でごったがえしている! これは、たまらん。私は、大勢の海水客の中で夢ごこちであったのか。誰もが笑っていた。「ばかか、こんなところで寝て」という感じ。そんなことは知らんぞ。昨夜は、あんなに静かな浜辺だったではないか。興ざめの思いがよみがえる中、金比羅宮への階段を上る足下が視界に戻った。

 やれやれ、白日夢に見舞われたようだ。しかし、実に美しい記憶のかけらであった。金比羅宮詣での旅日記をしたためようと思ったのに、とんだ寄り道である。かくして想いは回顧を巡り、千段を超える階段に我が健脚の証をご披露する旅日記の機会を逸してしまったではないか。自由気ままな書きぶりとは言え、無念極まりなく擱筆する。

<19> 夢遙か、我が忘れじの名物先生

 たまに、学校の恩師の夢を見る。今だに夢に出てくるのだから、相当なインパクトを与えた先生たちだ。これほどの名物先生、私の心だけにしまっておくのはもったいない。ぜひ紹介したい。その名物先生は結構いる。今回は小、中、高校から、えいやっ!という気持ちで各限定1名の紹介である。

 小学校にはいろいろおられた。安平先生(さすがに仮名にさせてほしい)の、あの赤ら顔が真っ先に浮かぶ。お酒が相当いける口であった先生は、いつも赤ら顔をしておられた。実に豪快な先生であった。クラスには、自由奔放、やんちゃな男子がいて、いつも先生にしかられていた。そのしかり方が半端でなく、3メートルほどもある太い竹を抱え、その子の頭をガンガンたたかれるのである。今なら、体罰を越えて犯罪行為となるしかり方であった。その子は、たたかれてもものともせずやんちゃを続行するのであるから、大したものだ。 教師も児童も、バンカラの大人物がいたようだ。

 確か、若くもないのに大型バイクを飛ばし、片道1時間ほどの遠距離通勤を続けておられた。たまに先生は、高級料亭に出かけた経験を年端もいかない私たち児童に自慢げに話されていた。安月給の身の上では、よほど嬉しかったのだろう。「キュウリでも、スーとまっすぐなやつが出てきて、ほんまにおいしいんや」と話されていた先生の悦に入った顔が、なぜか忘れられない。子どもは誰も、こんな大人世界のこぼれ話が大好きだ。

 中学校にも名物先生は多数いた。城田先生は理科の先生。実に多才であった。黒板には印刷物のような活字を美しく書かれ、背を向けて板書中もずっとしゃべり続けられた。50分間、まさに隙のない授業で圧倒された。自慢なのかどうか、黒板の板書は消さずに退室されるのが常であった。次に教室に入ってくる先生は、その美しい板書に驚嘆の声を上げられた。その光景も、生徒にはちょっと見ものであった。バレーボール部の顧問もされ、あのトスさばきの華麗さは今だに目に焼き付いている。教師の模範のような先生であった。

 高校の先生は個性派ぞろい。ピカイチの個性派先生を紹介しよう。枝野先生は結構神経質で、こだわりの強い先生であった。入浴時にも石けんを使わないという変わり種でもあった。そのことを堂々と公言される。趣味も多彩であった。テレビで映画のロードショーを視ては必ず大学ノートにびっしりと感想を書き、その大学ノートがすでに5冊たまったと嬉しそうに話しておられた。ホームルームには他の先生をつれて即席バンドを結成し、ギター担当でフォークソングを奏でる。昼休みには、中庭で同僚相手にピッチング練習。さぞ、天国のような教員生活であったことだろう。
 そのくせ、授業はまめであった。「それでは、一献書いてもらおうかのう」、広島弁丸だしの先生の口ぐせであった。「楊貴妃がどれほど美しかったというと、ハンカチで汗を拭うと、その汗は桃色に染まったんじゃ」と真顔で話される。ほんまかいな、と思いながら、今でもその逸話が記憶に残っているのはなんだろう。

 こうして大学に入ると、名物先生との出会いはピタリととまった。一人で自ら歩んだ研究の道程がよみがえるばかり。

 幼きころの学校の先生の影響力は絶大なり。このことを肝に銘じて、教員予備群や現役教員は日々の鍛錬に励むべし。子どもひとりのその後の人生行路を決定するほどの影響力をもつのだ。

 大学教員としては、悔しくも、うらやましい存在なのだ、学校の先生は。忘れじの教訓としてほしい。

<18> 海外でのトラブル、ワンサカ、ワンサカ♪

 海外へは数え切れないぐらい出かけている。アメリカにいるときは、アメリカ中を飛び回った。しかし、根が慎重なせいか、大きなトラブルに巻き込まれたことはない、と思う。が、小さなトラブルには山ほど遭遇した。紹介しきれないが、海外旅行の参考程度に、記憶をたどりながらいくつか紹介しょう。今回は、アメリカ編のごく一部である。

 シカゴからワシントンでの出来事である。確か、学会で成田からワシントンに飛んだときだった。北米に入ってからしばらくして落雷の悪天候に見舞われ、搭乗機がシカゴのオヘア空港に急遽降り立った。乗客は誰もが不安な顔つきであった。何が不安かというと、この次の移動をどうするかという大問題がある。このようなときは、カウンターでクレームを入れ、飛行機のチケットを手に入れる必要がある。もう夕刻の遅い時間なのでこの日の便はないだろう。ホテルも手配してもらう必要がある。翌日には必ずワシントンに着かなくてはいけない。学会発表は待ったなし。結構切羽詰まった状況であった。

 カウンターの女性はちょっと横柄な感じたった。客の言いなりにはならん、という気構えが見える。アメリカではよくあることだ。なんせ、アメリカの某飛行機会社はキャビン・アテンダント機内食のパンを乗客めがけて投げつけるほどだ。やはり日本のどこやらの航空会社は世界一だと、しみじみ思ってしまう。
 しかし、ここで臆すればアメリカ人には勝てない。悪天候はどうしようもないかもしれないが、そんなことで遠慮していては相手にのまれてしまう。“It’s your fault!”(あんたらの責任だ)と、こっちは犠牲者だということを思い切り主張する。事実、犠牲者に違いない。それに、私たちは客なのだ。しぶる相手の目から視線をそらさず、迫力をもって主張し通す。とことん主張する。もちろん、声を荒げてはいないのでご安心めされ。あくまでもこちらは紳士である。
 アメリカ人は自己主張と押しが強いとよく言われるが、こちらが本気で主張するとことごとく折れる弱さがある。カウンター嬢は、私の目を見ず、チケットと、それにもちろんホテル宿泊券、さらに押したので夕食代まで投げつけるように手渡した。まっ、いいだろう。ことは決着した。

 そこからタクシーで町外れのホテルへ。なんというゴージャスなホテルであったことか。浴室は大理石で、湯につかりながら壁に備え付けのテレビが視れた。ベットもフカフカ。残念なことは、わずか数時間しかホテルに滞在できなかったことだ。早朝便に乗らねばならず、シャトルバスで空港に出向いた。眠い。実に眠い。ワシント行きの機中ではもちろん爆睡であった。

 到着したワシントンでも気まずいことがあったな。日本ではめったにしないのに、海外ではやたら道をたずねる。ある英文学者が、学徒のころ、分かっている道を尋ねては語学の勉強をしたと聞いたが、そんな、せこいことはしていない。本当にわからないから、てっとり早く聞くのである。聞くとほぼ全員丁寧に教えてくれる。こんなときは、アメリカ人はとても親切だ。
 それに慣れたのか、ワシントンのダウンタウンで、札束を数えている人に道をたずねてしまった。May I ask you a question? 即刻、No! とにらまれた。当然のことだが、久しぶりの拒絶に心が折れた。何もそんなににらまなくても・・・。しかし、悪いことをしたな、とつくづく反省した。守るべきはマナーである。
 
 ここは、せめてもの償いにアメリカのよいところを一つ紹介せねばなるまい。実は、日本人が思っているほどニューヨークでもどこでもアメリカは基本的に治安は悪くない。きわめて安全なのだ。ニューヨークからワシントンに列車で移動し、深夜に駅についてホテルまで20分ほど歩いたことがあった。暗闇の寂しい通りに、黒人が多くたむろしていた(ワシントンは黒人が多い)。しかし、一人歩いていても何も怖くなかった。私を見る彼らの目はフレンドリーなことこの上ない。人好きのする、明るい人たちだ。とにかく、すこぶる安全、安心なのだ。
 日本でもそうだが、何もかも安全ということはない。そうは言えば、デトロイトで怖い目に遭った。銃弾が頬をかすめるという恐怖の体験をしたのだ。やれやれ、これはまたの話にさせてほしい。


 まだまだトラブルは出てきそうだ。今回はこのあたりにして、次回を期そうではないか。

<17> マンザイ、バンザイ!

 これまで、結構お堅い、重い話を記事にしてきた。そろそろ、本来は柔らかい部分も多々ある人物であることを証すときが来た。そんな記事を織り交ぜねばなるまい。剛柔兼ね備えた人間であることをおおらかに語るときだ。

 何を隠そう、私はお笑いが大好きである。離れて久しいが関西生まれ、こてこての関西人である。大阪生まれと言いたいところだが、大阪まで電車で一駅の兵庫県川西市、源氏ゆかりの多田神社で産湯をつかった誕生である。これが惜しくも、「大阪生まれや」と公言することを禁じている。大阪で「大阪生まれや」と嘯くと、「大阪ちゃうやん」と突っ込まれた外傷経験を3度もっている。悔しい思いをすること甚だしいが、関西人には間違いないからな。

 関西人はお笑いの風土に生まれ、生きている。ボケには突っ込みを入れる生活習慣は未だに健在である。幼きころから「突っ込み養成ギブス」なるものを纏い、すかさず軽妙に相手の肩に「なんでやねん!」と突っ込みを入れる技を磨いてきた。奥深い山中で修行を積んだ武者のごとき生育史である。関西人は誰もがこの奥義をもっているのだ。

 ここ徳島の学生たちにボケてみせては突っ込みを待つこと幾星霜。その待ちはもはや詮無いことと諦観した。反応がないのである。まったくない。仕方がないので、伝家の宝刀、ひとり突っ込みを飛ばし、一息つく。空しいと言えば間違いなく空しく、希少に散らばる大阪出身の学生を見つけてはその憂さを晴らしている。やはり、大阪人の彼らは間髪入れずに突っ込んでくれる。こちらも、おかえしにボケには突っ込みを漏らさず返す。ありがたや、この麗しき人間愛。生きている心地がするではないか。

 こんな関西人気質の私は、当然のことながら漫才を好む。どちらというとしゃべくり漫才が好きだが、最近の騒がしいのも嫌いではない。和牛もいいが、霜降り明星もよい。ピンなら女性の芸人が味わい深い。男芸人など足下にも及ばないのだ、本当は。そして、漫才はなんといっても関西だ。関東のあの、鼻についたしゃべりは昔から性に合わない。いつもとりを飾る、関東の某漫才コンビが出るとチャンネルを速効で切り替える。大阪にとって、ここでも東京はライバルなのだ。負けたらあかん東京に、である。

 ところが落語はそうでもない。東京もよいのである。かつて柳亭市馬の落語会を名古屋で聞いて衝撃を受けたことがある。そう、若くして落語家協会の長を務める彼である。負けた、と思った。惨敗であった。何を競い合っているのか?というと、客の心をつかむ話芸である。私も講演は下手でない。むしろ、引きつけのある話をすると自負していた。ところが、ところがである。市場の話芸は至宝の輝きをもって、客を引き寄せてやまない。一介の研究者の私がたちうちできる代物ではなかった。

 こんな話で終わると研究者のレベルが疑われかねないので、最後に知識のかけらをひとつ。お笑いは健康に良いというのは本当である。免疫力が高まる。お笑いの反対の苦行、たとえば歯を食いしばって長距離走をすると、一時的だが免疫力が俄然落ちる。異常細胞を食い殺すキラー細胞の活性化が落ちるのだ。反対に、笑いやユーモアはその活性を上げる。
 こうは言っても、悲しみは長きに続くが、笑いは一過性のものだからたちが悪い。この面から健康になるには、ずっと笑っておけということか。現実にはそうも行くまい。節操のある笑顔は人を引きつけるが、笑いっぱなしの生き様は人を遠ざける。想像するがよい。笑いっぱなしの友人がいつもそばにいる生活を。うっとうしいことこの上ない。

 笑いは健康によいと言うが、大阪人は別に長生きではない。ということは、大阪人の笑いも結構シュールなものが多いのかもしれないな。大笑いして、やがて悲しい大阪人。
 妄想の上に調子に乗った雑文となった。これで、わがブログの愛読者が5人は去ったな。

<16> 札幌、豊平川の奇跡

 一昨年札幌での講演に出向いたとき、実に奇妙な体験をした。私にとっては希有な、奇跡の体験であった。ぜひ紹介したい。

 前日入りしてホテルの部屋で近くに何があるのか調べていると、驚いた。何と、あの有島武郎の小説「生まれ出ずる悩み」の舞台となった有島自身の家の跡が近くにあるというのである。

 愛読書は何冊かすぐに挙げることができるが、この小説は私が中学生のころから愛読書中の愛読書なのである。画家志望の青年がみずからの能力を信じ切れず、有島に絵を見てもらいに札幌、豊平川近くの邸宅に尋ねるところから物語が始まる。その後、歳月を経て再度有島邸を尋ねた青年は、漁師として生計をたてながらも夢捨てきれずに絵を描き続けていた。

 小説は、こんな青年と有島との出合いと再会時の対話、そして有島の青年への逞しい想像により綴られている。新たな世界に生まれ出ようとして苦悶する人間の姿が、その心の動きとともに見事に描写されていた。
 私は、仕事上の壁に出会うたびにこの小説を手にとった。そして、ふたたび歩む力を得ることができた。私にとって、宝の小説である。

 「山ハ絵具ヲドッシリツケテ、山ガ地上カラ空へモレアガッテイルヨウニ描イテミタイ」。そう書かれた有島宛ての青年の手紙に画家としての真実を見たようで、心を打たれた。

 その青年こそ、晩成の画家木田金次郎、その人であった。かなり前に大学でこの話をしたことがある。一度この画家の絵を見たいものだと学生に話した。そのとき、ひとりの学生が「先生お見せします」と言うのである。その学生は北海道岩内の出身で、そこにはこの画家の美術館があり、画集も出ているという。

 夏休みが終わり、学生は画集をたずさえて大学に来ると、ポンとその画集を私にくれた。その絵に見入った私の感動を誰が想像できるだろう。芸術的なセンスがまったくない私の心を打つ絵画は、作者の人となりが見える絵でしかない。その絵は、あの小説で苦悶し、壁を乗り越えた者、本当の芸術家のみが描ける絵であった。

 9月の夕暮れどきにはまだ時間があると、早速ホテルを出て有島邸跡に徒歩で出かけた。思いの他時間がかかり小一時間も歩いた末、ようやくその跡地に着いた。そこには、「有島武郎旧邸跡」と一本の杭がたてられているばかりで少しがっかりした。

 そのまま豊平川の土手に上がり川沿いを散策することにした。周りの風景はすっかり変わったであろうが、豊平川の流れはおそらく当時のままに悠々として穏やかであった。土手にはコスモスの花が咲き乱れていた。

 二人がここで出会ったと思うと、しみじみといろいろなことに思いを馳せることができた。そのとき、あの画集で見た木田金次郎の「夏日風景」という油絵が脳裏に浮かんだ。その瞬間、突如として、言葉のつらなりが天から降ってきた。その言葉は有島からのメッセージだったのだろうか。まるで、小説「生まれ出ずる悩み」で有島が本当に言いたかったメッセージのように感じた。

 すぐにホテルに戻り、そのメッセージを次の日の講演用のスライドに埋めた。講演は、学校の先生たちを対象にしたものだった。そのメッセージを何度も読むと、それは私へのメッセージであり、有島が多くの人に伝えて欲しいと言っているようなメッセージのようにも感じた。
 
 有島のメッセージなら、英語文化に染まった難解かつ格調高い言葉になるのだろうが、私という凡人のフィルターを通したせいか、そのメッセージは誰もが理解できる平易なものであった。

 これは、私の妄想かもしれない。しかし、お伝えせざるを得ない衝動に、今も駆られている。最後に載せておく。それぞれに感じとって欲しい。

          「世界でたった一枚の絵」

     絵は誰でも描ける
     描かれた絵は、世界でたった一枚の絵だ
     その絵にどのような価値があるのか、正直分からない

     しかし肝心なことは、絵を描こうとする熱い衝動、
     絵を描き切る行動力、さらには、
     描かれた絵への心からの慈愛である

     不思議なことに、その絵は物語を奏でる
     子どもたちの心に響く物語だ
     物語を心の支えに、彼らは人生の荒波を渡るだろう

     先生なら幸あれと願う そう願ってまた絵を描く
     世界でたった一枚の絵を

<15> 胸しめつける、郷愁の母

 卒業の季節。研究室の学生たちが巣立った。静寂の院生研究室に佇む。実に静かだ。胸を覆う惜別の情。この悲しみは何なのだ。毎年のことなのだが、教員稼業のなんとせつないことか。
 出会いがあれば、別れがある。重々に承知している。しかし、別れがない出会いはないものか、とも考えてしまう。物理的な別れはあっても、精神的に分かれを断つことはきっと可能だろう。

 彼らはそれぞれ希望に胸ふくらます世界に入っていく。それなのに悲しむとは、なんと自分勝手なことか。いつまでも自分のもとに置いておくことはかなわぬのに。そう言い聞かせるのだが、この思いはどうにもならない。裏を返せば、本当に充実した教育・研究指導ができたと思っている。悲しみ以上に、彼らの今後の活躍に期待し、そう祈っていることも事実である。

 子が巣立つとき親もこのような心境であろうかと考えて、はたと気づいた。逆に、子が親と今生の別れを経験するときの悲しみはどうだろう。一昨年に父を見送った。自由に人生を謳歌した父。その父を支えきった満足に、悲しみよりも感謝と満足の気持ちで満たされた葬儀のときであった。親の死を悲しむよりも、悲しみを圧倒するほどの孝行を生前になすことが子のとるべき徳というものだ、と威勢を張ってみても、一抹の後悔は残り続ける。しかし、意外と納得のいく別れには驚いたものだ。

 さて、年老いた母親に思いを馳せればどうだろう。尽くせない。どれほどの孝行をなしても尽くせない。その思いに圧倒されるばかりだ。子どもにとって母親の存在価値は絶大なのだ。もし母が旅立ったら、私は立っていられないほどの悲しみに打ちひしがれることになるだろう。
 母親の胎内から生まれ出たこともあろうが、やはり幼いころ母親から受けた慈しみは生涯に渡りぬぐい得ぬ心の堆積物になっている。幼いころから今日までの、母親から受けた無条件の愛が心にしみる。見返りのない愛は、受けた後には忘れ得ぬ恩情とともに重く受け止められる。孝経の一節に「身体髪膚、之を父母に受く」とあるが、母に受く、という思いが自然と強まる。

 よし、母親が亡くなるなどとは金輪際考えずにおこう。人は生まれときから死という悲劇の運命を背負うことになるが、その悲劇を忘れる仕掛けが幾重にもなされ、我々の日々の生活の安寧は守られるはずだ。今を楽しみ、来る日々の朗々とした輝きを信じて生きればよいのだ。母が亡くなるようなことがあれば、圧倒的な悲しみには所詮あがなうことはできないだろう。せめて今は、精一杯母親との毎日を享受しよう。

 こう考えて分かったことがある。学生の巣立ちを大いに悲しむがよい。それは偽りのない正直な気持ちだ。もっともなことだろう。せめて、彼らが学生のうちは、学生との生活を楽しもう。悔いのない最高の指導をしよう。そして、巣立つ学生への悲しみの背後で、前途洋々たる未来を陰ながら祈ればよし。教師とはそういう宿命なのだ。いや、教師冥利につきると言わねばなるまい。これも、また幸いかな。
 人生は、心の持ちようでどのようにも輝いてくる。そう、心の持ちようで。 

<14> 一瞬の時を解放せよ!

 言わずもがな、現代社会に生きる我々はストレスにさいなまれている。そのストレスの出所は、病気を除けば、大半は対人関係の問題からくる。対人関係のストレスが嵩じるのは、過去を悔やみ、将来を心配しすぎることによる。このことから昨今、今このときに集中することが勧められている。つまり、今一瞬の時を過去と未来から解放するのである。
 
 英語では確か、”Past is a history. Future is a mistery. Present is a gift” と簡潔に表現され、これは儒教思想から来ているとも聞いている。なるほど、うまく言ったものだ。現在は贈りものなのだ。しかし、今ここ(now and here)に心をとどめることは究極の難問である。これができれば、過去と未来へのとらわれの時間が自動的に激減する。

 このことを可能にするために、昔も今もさまざまな技法が編み出されている。仏教でお経を唱えたり、写経に没頭するのもその方法。座禅も極めればそうなる。そして現代でいえば、マインドフルネス・トレーニングが流行りだ。この方法では、たとえば、呼吸などの身体反応に意識を集中させ思考を中断する。何を隠そう、私も日に何度か、呼吸に集中し、マインドフルな状況をつくり、思考の有害な移ろいを防いでいる。これが結構ストレスに効く。
 
 しかし、人は何も考えないという状況がなかなかつくれない憐れな存在。起きているときは精一杯考えてしまう。夢の中でも考えるときがあるから恐ろしい。しかも、その考えの焦点は刻々と流転する。もちろん、今ここだけにとどまっていては人生は成り立たない。やはり、要はバランスになり、過去と現在と未来へのとらわれは対等ぐらいがよいのではないか、とひとり予想している。

 さあ、今ここへのとどまりをどのように達成するか。これで決まりという方法はないので、各自が自分に合った方法を選べばよい。写経はやったことはないが、一度やってみたいと思っている。いろいろやってみると、いずれは自分に合った方法に出会うことになろう。フロー体験といって、意識が飛ぶような集中体験にたまに遭遇することがある。しかし、これは天から降ってくるような体験で、自分で自在にたぐり寄せることはできそうにない。ランナーズハイもよく似た現象である。

 それにしても、あまねく人生は過酷なものだ。その人生を幸多く、快適なものにすることは最大の課題となる。このブログもそのことに貢献したいと切に願っているが、まだまだだな、という思いが焦燥感をかきたてる。ここでひとつ、マインドフルネスを1回やっておこう。